第34回 伊藤博文~明治の国づくり(帝国憲法)~
■ scene 01 自由に政治に参加する権利を!
板垣退助は明治政府の役人でしたが、政府の職を辞し、「自由民権」について日本各地を演説して回りました。
「国民はみな、自由に政治に参加する権利を持っている。
国民を政治に参加させろ!」。
自由民権運動は全国に広まり、はやりの歌ができるほどの人気になりました。
「♪オッペケペー オッペケペー オッペケペッポー ペッポッポー 天地の真理がわからない 心に自由の種をまけ オッペケペー オッペケペー…」。
楽しそうですが、これは西洋のまねばかりしている政府の役人たちを批判している歌なのです。
■ scene 02 政府に対して高まっていた不満
板垣退助は、明治政府に議会を開くことなどを求めた自由民権運動の指導者です。
土佐藩(とさはん)、今の高知県出身の板垣は、倒幕(とうばく)の功績により政府の重要な役職に就いていました。
明治時代、国の政治を行っていたのは、江戸幕府をたおした長州(ちょうしゅう)や薩摩(さつま)など一部の藩の出身者たちでした。
また明治政府は、武士階級が支配してきた「藩」を廃止(はいし)。
代わりに「府」や「県」を置き、政府が任命した役人を派遣(はけん)しました。
その結果、多くの武士たちが仕事も収入も失い、政府への不満を高めていきました。
■ scene 03 国民が政治に参加する権利
こうしたなか、板垣は政府をはなれ、民間の立場から政治を変えようと行動を起こします。
板垣は、「日本も欧米(おうべい)の国々のように議会を開き、国民の意見によって政治を行うべきだ」とうったえます。
そして、演説会や新聞などを通してこの考えを広める「自由民権運動」を始めました。
板垣の考えはやがて多くの国民に広がり、活発な議論を巻き起こしました。
■ scene 04 ドキリ★板垣たちによって自由民権運動が広まった
ある日。演説を終えた板垣は暴漢におそわれます。
板垣は重傷を負いながらも、「板垣死すとも自由は死せず」と、自らの覚悟(かくご)を語ったと伝えられています。
板垣たちによって、国民が政治に参加することを求める自由民権運動が広まりました。
■ scene 05 国会開設を求める声
板垣の自由民権運動が高まるなか、政府にも、国会をつくることが必要だとうったえた人物がいました。
大隈重信です。
大隈は、憲法をつくり、選挙で選ばれた国民の代表が議会政治を行うべきだと主張しました。
ところが、国会開設はまだ早いと考える伊藤博文らと政府内で対立します。
その結果、大隈は政府を追われてしまいます。
政府内で激しい議論が行われているあいだにも、国会開設を求める声はますます全国で激しさを増していました。
その声におされる形で、1881年、政府は10年後に国会を開く約束をしたのです。
■ scene 06 初めての衆議院議員総選挙
板垣と大隈は、国会開設に向けて準備を始めます。
板垣は自由党、大隈は立憲改進党(りっけんかいしんとう)という政党をつくりました。
一方、明治政府の伊藤博文は、ドイツの憲法を手本として日本独自の憲法案をまとめます。
そして1889年、明治天皇が国民にあたえる形で大日本帝国(ていこく)憲法が発布されました。
翌年、憲法のもとで初めての衆議院議員総選挙が行われます。
こうして、全国から選ばれた300人の議員たちが集まり、第1回の帝国議会が開かれました。
■ scene 07 ドキリ★議会政治の始まりに大きな役割を果たした
日本の政治の中心、国会議事堂。
この議事堂の中央広間には、日本の議会政治に大きな功績をのこした板垣退助と大隈重信の銅像が建てられています。
板垣と大隈は、日本の議会政治の始まりに大きな役割を果たしました。
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