第39回 田中正造・平塚らいてう(らいちょう)~市民運動の高まり~
■ scene 01 女性が自由に生きられる世の中に
「もっと自分を高めて可能性を広げたい」。平塚らいてう(らいちょう)は、大学を卒業してからも、文学や英語を学びながら小説を書いていました。
勉強したことや才能を生かしたいと思ったのです。
しかし、「男は仕事、女は家庭」という当時の世の中ではなかなか簡単にはいきません。
らいてうの時代は大学で学ぶ女性が増え、女性の仕事も増えつつありました。
それなのに、「女は家庭」など男女差別があったのです。
らいてうは、女性が自由に生きられる、そんな世の中にしたいと考えました。
■
scene 02 「良妻賢母」を期待された時代
平塚らいてうは、明治時代の後半から昭和にかけて、女性の地位向上のために力をつくした人物です。
明治時代、日本では女性が社会に出て活躍(かつやく)できる場所はほとんどありませんでした。
当時の女性たちは「良妻賢母(りょうさいけんぼ)」、つまり、「良き妻、かしこい母」として、子どもを産み育て、家を守ることを期待されたのです。
そんな教育が苦痛だったらいてう、女学校時代には、仲間たちと“海賊(かいぞく)組”と名乗り、授業をぬけ出したこともありました。
大学を卒業したあとも、女性が社会で活躍できないことに不満をつのらせていきます。
■ scene 03 「元始、女性は実に太陽であった」
1911年、らいてうは大学時代の友人たちと、女性が自由に意見を述べられる場を女性だけでつくろうと決心します。
そして発表されたのが、文芸雑誌『青鞜(せいとう)』です。
らいてうは、その中でこう語っています。
「元始(げんし)、女性は実に太陽であった。今、女性は月である」。
女性は本来、自ら光を放つ太陽のような存在であるのに、今はまるで月のように他人に依存(いそん)している。
さらに、「天才は男性にあらず、女性にあらず」。
天才、つまり才能は、男女の性別には関係ない。
女性もそれぞれの才能を発揮するべきだと宣言したのです。
■ scene 04 ドキリ★『青鞜(せいとう)』を作り、女性の自立をあとおしした
『青鞜』の反響(はんきょう)は大きく、らいてうのもとには共感した多くの女性が訪ねてきました。
当時のことを語るらいてうの声が残っています。
「書いてるときは、そんなに大勢の人が動いてくれるとは思わなかった。
みんなが不満を感じていても、おさえられていたので出てこられなかったものが、私というものを借りてパッと外に出たという形でしょうね」。
らいてうの『青鞜』は、女性たちの自立を大きくあとおししました。
■ scene 05 自由や権利を求めて
その後も、らいてうは「新婦人協会」を設立し、女性の選挙権を求める活動などを続けました。
女性の自立のために生涯(しょうがい)力をつくしたらいてう。
明治以降、らいてうをはじめ多くの人が、自由や権利を求めて立ち上がったのです。
■ scene 06 足尾鉱毒事件
明治時代、社会の矛盾(むじゅん)を正そうと、多くの人たちが立ち上がりました。
足尾(あしお)鉱毒事件に生涯(しょうがい)取り組み続けた田中正造も、その一人です。
欧米(おうべい)諸国に追いつこうとしていた日本では、兵器や機械を作るため、鉄や銅をあつかう重工業が急速に発達しました。
しかしその影響(えいきょう)で、栃木県の足尾銅山では、工場のけむりが木々をからし、鉱毒の混じった水が川に流されたことで農作物がかれ、魚が死ぬ被害(ひがい)が出たのです。
■ scene 07 決死の行動
栃木県に生まれ育ち、国会議員になった田中正造は、足尾銅山の鉱毒をなくす対策を何度も政府に求めました。
しかし、正造の意見は聞き入れられず、被害(ひがい)をうったえようとした農民たちと警官たちが衝突(しょうとつ)する事件も起きました。
このままではいけない…。
正造はついに決死の行動に出ます。
苦しむ農民たちの現状を、直接明治天皇にうったえようとしたのです。
■ scene 08 ドキリ★公害への問題意識を広めた
「おねがいがございます!」。
馬車に乗った天皇に手紙をわたそうとした正造は、すぐさま警官に取りおさえられました。
死刑(しけい)になってもかまわないという覚悟(かくご)で直訴(じきそ)にふみきった正造。
多くの新聞がこの事件を大々的に報じ、公害に対する問題意識が国民に広まるきっかけになりました。
Không có nhận xét nào:
Đăng nhận xét