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Thứ Năm, 17 tháng 4, 2014

日本の宗教は、戒律に無関係、人間中心。最澄


日本では、神仏は人間の一種
「宗教とは戒律の山」、「宗教≒戒律」が海外の習いです。

たとえば、タイの仏教には、227条の戒律があります。

最澄は、804年唐にわたり、帰国後天台宗をおこしました。
しかし、戒律がいつの間にかなくなってしまいました。

日本では、宗教も人間中心で、人間の都合が大事なようです。
神さまも仏さまも人間のためにあります。

また、日本は外国のものは、日本的にしてしまいます。

*     *     *

一神教のキリスト教、イスラム教では、神が世界をつくりました。
神が人間をつくりました。
神は人間を意のままに扱います。
神の命令、戒律は絶対命令です。

日本では、イスラム教を禁止しませんでした。
しかし、戒律だらけの宗教を日本人は受け入れません。

日本は、島国で異民族との大きな戦争がないので、一神教で強く団結する必要がなかったというおだやかな歴史であることも原因でしょう。

【cf.】
小室直樹 日本人のための宗教原論

タイでは227の戒律が



Thứ Hai, 30 tháng 12, 2013

すがすがしい毎日を過ごすために。川越氷川神社

そっと、心で手をあわせる

(川越氷川神社の「すがすがしい毎日を過ごすために」を一部改変。)


あわただしい日々を過ごしていても
家庭の中に、そっと手を合わせる場所があれば
こころにゆとりが生まれます。


朝、目がさめたとき、夕方、外出先から戻ったとき
わずかな時間、心を静めて手を合わせてはいかがですか。


目に見えない力を信じる心の余裕は、
日々の暮らしを、
よりすがすがしく、
安定したものに変えてくれるはずです。

Chủ Nhật, 13 tháng 10, 2013

親鸞の浄土真宗はキリスト教に近い

仏教は、解脱(げだつ)を目的としていました。

「解脱」とは、悩みから
    解きはなたれ、
    脱け出す
ことです。

しかし、仏教がネパールからガンダーラ方面に入った時、
    救済
という考えが入り込みました。

ガンダーラにはアレクサンダー大王のヘレニズム(ギリシャ)文化が浸透していました。


「救済」は中国で、浄土信仰になりました。
浄土信仰の「救済」には、長安に入っていたキリスト教の「救済」要素も取り入れられました。


・最澄(767 - 822)は、唐から浄土関係の資料を比叡山に持ちかえりました。

法然(1133-1212)は、浄土思想をもって比叡山を降り、浄土宗を開きました。
貴族のものであった仏教を万人向けのものにしました。
法然の浄土宗では「となえれば成仏」と教えました。

・法然の弟子・親鸞(1173- 1263)は、浄土宗をさらに先鋭化し、浄土真宗を開きました。
親鸞は、法然の浄土往生をさらに高めて行く事に力を注ぎ、自らが開宗する意志は無かったと考えられます。
阿弥陀如来(≒唯一の神=キリスト的なもの)だけが、人間を救済することになりました。

親鸞の浄土真宗では「信ずれば成仏」と教えています。

親鸞の浄土真宗の盛んなところでは、阿弥陀如来が絶対的な救い主です。
おがむのは、アミダサマだけです。

したがって、
    怪力乱神、お化け、御霊信仰、迷信
は、勢いがありません。

日本で一番多い宗派は、親鸞の浄土真宗です。

「親鸞」とは、
    インドの「世親(せしん)」と
    中国の「曇鸞(どんらん、中国仏教の開祖)」
の浄土教の僧侶名を合わせたものです。
ユーラシア的、世界的です。

親鸞の思想、絶対平等主義は、キリスト教に近いといわれます。
紀元前500年の釈迦(シャカ、仏陀)がキリスト教に影響を与え、唐では景教となりました。
空海も、景教寺院を見ています。

日本仏教は諸宗教を包摂:仏教伝来ルート地図

(※)浄土
仏様の数は、三千仏といわれるほど、多いです。
それぞれの仏様は、自分の住む世界・浄土をもっています。
たとえば、薬師如来は、東方の瑠璃光(るりこう)浄土に住んでいます。
しかし、「ナンマンダブ」ととなえれば極楽浄土へ往生できるというアミダ信仰が、
他を圧倒してしまいました。
往生とは、西方極楽浄土へ「往って生きる」ことです。

(※)寿命
法然は80歳、親鸞は90歳まで生きました。
平均寿命が50歳にも満たない頃です。

「自力」の空海60歳、日蓮は60歳です。
「他力」の浄土宗は長命の傾向があるようです。


Thứ Bảy, 12 tháng 10, 2013

空海は、密教を仏教の完成形に。



密教とは、
    の仏
のことです。

師伝の秘法です。危険なので、教義では教えません。
純粋密教は、インド、中国でも滅び、日本にだけ残っています。

空海(774- 835、61歳)は、唐の長安に2年留学しました。

長安は国際都市で、キリスト教やゾロアスター教の教会もありました。

密教の「護摩木(ごまぎ)」を火に燃やしながらの祈祷は、ゾロアスター教(拝火教)由来との説もあります。

その頃の奈良の南都六宗は、停滞していました。
桓武天皇(737- 806)が遣唐使を派遣したのは、新しい仏教を求めたからでした。

また密教は、役小角(えんのおづぬ)のような呪術(じゅじゅつ)でもありました。

空海は、諸宗を包摂し、仏教の付けたりだった密教を、
    仏教の完成形
に格上げしました。


【※】 密教
esoteric(ソテリック) Buddhism :秘密の仏教

【※】自動車メーカー「マツダ」
「マツダ」は創業者の名前とゾロアスター教の絶対神アフラ・マツダを合わせたものです。

【※】エンゼル
キリスト教のエンゼルもゾロアスター教起源のようです。


Thứ Hai, 7 tháng 10, 2013

蓮馨寺案内

蓮馨寺案内
  後北条から江戸までの歴史を物語る川越市民いこいの寺

NPO法人武蔵観研 会長  桑  原  政  則

(この下からリード) -----------------------------------

  蓮馨寺(れんけいじ)は、24時間開放の川越市民いこいの寺で、界隈は川越の浅草とも称せられた。一方では、葵の紋所を許された格式ある檀林(僧侶養成大学)で、殿様も、旗、槍をたおし目礼してから門前を通った。本稿では、観光面にもスポットをあて、時計回りに、後北条から江戸までの歴史を物語る川越市民いこいの蓮馨寺めぐりをおこなう。

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室町時代に創建
  後北条(小田原北条)は、1546年の河越夜戦(かわごえよいくさ)で上杉勢に勝利した。3年後の1549年に蓮馨寺が創建された。室町時代のことである(川越は江戸ばかりではない)。のちに後北条の川越城将・大道寺政繁が、蓮馨寺を現在地に移す。大道寺政繁の甥にあたる感誉存貞が開山。のちに存貞は大本山・増上寺法主(ほっす)に栄達。

壇林(だんりん=僧侶の大学)  【pic】
  浄土宗壇林・蓮馨寺は、江戸期には関東十八檀林の一つで、幕府公認の僧侶養成機関として多くの学僧を育てる。壇林では3年1期、9期27年学ぶ。葵の紋所を許された格式ある寺で、殿様も、旗や槍をたおし目礼してから門前を通ったという。

インド門
  蓮馨寺講堂の門。インド・サーンチー遺跡の記念の門を模したもので、聖なる場所への入り口を表わす。講堂は多目的ホール。

水舎(みずや)
  1893年(明治26年)の川越大火で鐘つき堂と共に火災を免れる。水鉢の龍頭の彫り物。鶴亀、牡丹唐獅子、唐子(からこ)遊びの図など。

将監地蔵尊(しょうげんじぞうそん)
  松平信綱の重臣、遊佐将監(ゆさ しょうげん)作の地蔵。奇跡を起こすとして信仰される。

蓮馨大姉の供養碑  墓域   【pic】
  大道寺政繁の母・蓮馨大姉の供養碑が。蓮馨とは、(阿弥陀仏のいる極楽浄土の)蓮の香りのこと。蓮馨大姉が上尾市に蓮馨寺を建立し、大道寺政繁が現在地に移す。
  墓域には、忠臣蔵の赤穂側を弁護した多門伝八郎(おかどでんぱちろう)の供養塔、居合道の祖・林崎勘助の墓も(確認中)。

呑龍堂  【pic】
  蓮馨寺正面の祈願所が呑龍堂(どんりゅうどう)。呑龍上人は、社会事業の先駆者。子育て、安産に霊験。毎月8日は縁日。呑龍堂は祈願所で、本堂は隣の右側。

ミツウロコとアオイの紋所が並列  【pic】
  後北条(小田原北条)のミツウロコと徳川の葵の紋所と、1寺に2大藩の紋所があるのは異例。

なぎなた  【pic】
  呑龍堂のカモイの部分に。龍の彫り物のなぎなたが。龍は、水を吐き出し火災から守る。なぎなたは魔から守る。

おびんづる様
  釈迦の弟子。「さわって  なでると  すぐなおる」と言われ、なでやすいように、堂の外に置かれる。別名、なで仏。喜多院にも。

福禄寿
  川越七福神巡り第5札所の神。第4は成田山川越別院、第5は見立寺(けんりゅうじ)。

本堂
  本尊は阿弥陀如来。秀吉の朱印状、徳川家康の書状や徳川歴代将軍の位牌も安置。『蓮馨寺日鑑』は解読中。

  河越を戦禍から救った秀吉の朱印状
 1590年、秀吉軍が後北条の領地・河越を攻撃せんとした時、蓮馨寺初代・存貞が豊臣秀吉に手紙をしたためる。秀吉からの「河越では今後一切、火付盗賊、戦乱はまかりならぬ」との朱印状が蓮馨寺に残る。朱印状により河越が戦禍を免れたといわれる。

『蓮馨寺日鑑』 【pic】
  1714年から1866年までの150年間の公用の日記。幕府、増上寺、川越藩、門前町との関係の記録、祭礼、訴訟、嘆願の記録など。県指定文化財。解読中。いずれ川越史に新事実が。

客殿  【pic】
  本堂の右隣、遠州流庭園が本堂と客殿との間に。庭園の眺望に配慮し、座敷は雪見障子。

だんご屋
  「松山」。醤油だんご。90年の歴史。

和順会館
  集会室としても。和順とは浄土宗の開祖・法然の追号で昭和天皇より。法然は朝廷より8つの大師号を受けている。

トイレ
  境内に市営トイレのあるのは蓮馨寺、喜多院、成田山川越別院の有力寺院。

鐘つき堂(鐘楼)
  約1.5メートルの銅鐘は市内最大。15時に関東十八檀林にちなんで18回の鐘が。川越市文化財。

太麺焼きそばの屋台
  蓮馨寺は川越太麺焼きそばの発祥の地とも。

境内
  かつては露店が並び、相撲やサーカスが繰り広げられる川越庶民の娯楽の拠点。今も川越まつりにはレトロなお化け屋敷や見世物小屋が。明治までの境内は、川越熊野神社、鶴川座を含む川越織物市場跡あたりまで。

川越熊野神社
  中央通りをはさんだ蓮馨寺の斜め向かい。元々蓮馨寺境内であったが、神仏分離令により独立。かつては蓮馨寺の守り神。蓮馨寺の院号は「宝池院」で、かつて宝池(たからいけ)が。今では水源を一にする川越熊野神社の宝池にその名残が。

鶴川座
  1890年建設の芝居小屋。首都圏に現存する唯一の木造芝居小屋。全国芝居小屋会議では、鶴川座保存の決議文を。元々蓮馨寺境内に。立門前(たつもんまえ)通りに住変。

連雀町と中央通り
  蓮馨寺をとりまく地域。連雀とは「渡り雀たち」のこと。蓮馨寺に集まる行商人が背負うショイコが連雀に似ていることから。中央通りは、蓮馨寺前の通り。蓮馨寺境内の敷地の一部を昭和初期に県に上納し、中央通りに。

その他の関係寺社
  見立寺(けんりゅうじ、元町2)、大蓮寺(だいれんじ、元町2)、西雲寺(さいうんじ、丸広前)。常楽寺(上戸194)には大道寺政繁の墓と供養塔が。

おわりに
・歴史は、調査の深化により、書き換えられる。解読中の『蓮馨寺日鑑』により川越史に新事実があらわれることを期待したい。。
・島原図書館、福井県の図書館にも川越に関する古文書がうずもれている(大圖口承)。
・江戸ばかりでなく、後北条などの要素もまだまだあるはず。
・川越の歴史、物語をさらに豊かにするためにも、小田原北條祭り、寄居北條祭りと連携して、「川越北條祭り」の催行はいかがなものか。

【お礼】
本稿は、粂原恒久先生(浄土宗壇林・蓮馨寺住職、大正大学講師)のお話を参考にしました。記して感謝します。文責は桑原政則にあります。

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【追】
1573年小田原落城ののちに、豊臣秀吉が徳川家康と蓮馨寺を訪れました。その後徳川家康は蓮馨寺を御膳所(台所)として3度使いました。<※  龍神由美、AMF 2013>

Thứ Bảy, 29 tháng 6, 2013

鎌倉時代に、法然、親鸞が仏教を万人に開放

法然。増上寺。2011
平安時代には仏教は国家のためのもの、貴族のためのものでした。
貴族だけが浄土に行くことができました。
庶民には縁遠いものでした。

鎌倉時代になり、法然は、万人向けの浄土宗を開き、
「誰でも南無阿弥陀仏をとなえれば、極楽往生できる」
と教えました。

浄土真宗の親鸞も法然の弟子です。

法然は「となえれば成仏」、
親鸞は「信じれば成仏」
と説きました。

法然、親鸞は、仏教をみんなに開放しました。

◇                    ◆                    ◇

法然は8つの大師号を天皇から送られています。
このような例は他にありません。7
最新のものは、「和順」です。
昭和天皇から贈られました。

蓮馨寺の「和順会館」は、法然の大師号にちなんだものです。


法然は仏教を万人のものに



蓮馨寺物語  目次
蓮馨寺は、浄土宗です。
「浄土宗 檀林 蓮馨寺」が通称です。