Thứ Hai, 28 tháng 7, 2014

金閣寺の3つの窓

金閣寺

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丸窓。寺のつくり。 /*
3階は、丸みを帯びた窓です。
お寺の建物のつくりです。

足利義満は、僧であり、将軍でもありました。

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引き戸。武士の建物。 /* 
2階には、武士の建物のつくりが見られます。
内と外を仕切るのは、引き戸です。
あつかいやすくて場所をとらない引き戸ので、機能重視の武士の家で使われました。

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しとみ戸。貴族の建物。 /*
金閣寺の1階は、貴族の建物でした。
部屋に光や風を取りこむためのしとみ戸があります。
しとみ戸は、貴族の建物で使われていました。
貴族は、僧よりも武士よりも下に置かれていました。



臨済宗相国寺派 金閣寺

金閣寺 【2+】

鹿苑寺 1  
鹿苑寺 2
鹿苑寺 3
鹿苑寺 4
鹿苑寺 5
鹿苑寺 6



*
http://plaza.rakuten.co.jp/yohgo/diary/200910180000/
http://blogs.yahoo.co.jp/yamajikaze1/5008749.html
http://www.e-kyoto.net/special2/551

Chủ Nhật, 27 tháng 7, 2014

くらしと政治② 国民主権と国会・内閣

くらしと政治② 国民主権と国会・内閣

scene 01 国民主権を実現する仕組み

前回はわたしたちに身近な市役所の仕事について勉強しました。今回からは国の政治の仕組みについて考えます。そこで大切なのが、「憲法」です。憲法は政治のあり方や仕組みなどを定めている、国の最高の決まりです。現在の日本国憲法には大きく三つの柱があります。国民主権、基本的人権の尊重、そして平和主義。3回に分けて、この憲法の3本の柱について見ていきましょう。まず、国民主権。国民が主役となって国の政治を動かしていくという考え方です。国民主権を実現するために日本にはどんな政治の仕組みがあるのか。その一つが、「国会」です。
オープニング
scene 02 国民の選挙で選ばれる国会議員

東京都千代田区にある国会議事堂。国会は、この場所で開かれます。国会は主に、法律をつくるための話し合いの場で、多数決により物事を決めます。「国会議員」は、国民の選挙によって選ばれます。満20歳(さい)以上の国民はみな、選挙で投票する権利「選挙権」を持っています。候補者は、どのような政治をめざすのか政策をうったえます。国民はそれを聞いて、どの候補者が自分の意見に近いか考え、自分が選びたいと思った候補者名や政党の名前を投票用紙に書き、投票します。選挙で選ばれた国会議員は、国民の代表として、国民の意思を尊重した仕事を行うのです。
オープニング
scene 03 歴史にドキリ★豆知識

日本では明治時代の1890年に初めて選挙が行われました。25歳(さい)以上で、多額の税金、当時の15円以上を納めた男性だけに選挙権があたえられました。その結果、選挙権を持てたのは、全人口の100人に1人くらいでした。
オープニング
scene 04 選挙で選ばれた国会議員が政治を進める

国会は衆議院と参議院に分かれていて、定員は、衆議院が480人、参議院が242人です。任期は、衆議院で4年、参議院で6年です。衆議院は解散がありますが、参議院はありません。二つの議院で話し合うことで、政治の方向を慎重(しんちょう)に決めていく仕組みです。選挙で選ばれた国会議員が慎重に政治を進める。こうした仕組みが、国民主権を実現させるのです。
オープニング
scene 05 法律をつくる大切な仕事

みんなが読む本や、食べものや、身につけるものなど、ものを買ったときに支払(しはら)わなければならないのが消費税。そのほか、赤信号では止まる、未成年はお酒を飲んではダメなど、これらのことはすべて「法律」で決められています。法律とは、わたしたちの幸せを実現するためにみんなが守らなければならないルールのことです。この法律をつくるのが国会の大切な仕事で、国会だけが法律をつくることができます。さて、2011年3月11日に発生した東日本大震災(しんさい)。現在、復興のためさまざまな工事が行われていますが、これは国の予算を使って行われています。
オープニング
scene 06 ドキリ★国会が法律や予算などを決める

国民が納めた税金の使い方、国の「予算」を決めるのも、国会の役割です。たとえば、災害などが起こると国会議員はその場所に出向き、被害状況(ひがいじょうきょう)の確認や人々の要望を聞いて、必要な予算を考えます。そのほか、国民の健康や生活を守る社会保障費、公共の施設(しせつ)をつくる費用など、日本の予算は一年間でおよそ95兆円になります。国会には国民が選挙で選んだ代表が集まり、法律や予算などを決めます。
オープニング
scene 07 内閣の最高責任者「内閣総理大臣」

さて、国会で法律や予算が決まりました。これらを使って具体的に仕事をするのが、「内閣」です。そして、この内閣の最高責任者が、「内閣総理大臣」です。ところで、日本で最初の内閣総理大臣といえば?…。1885年、日本の初代内閣総理大臣に就任したのが、伊藤博文でした。
オープニング
scene 08 ドキリ★内閣は法律や予算に基づき国の政治を行う

内閣総理大臣を決めるのも、国会の大切な仕事です。国会によって選ばれた内閣総理大臣は、それぞれの専門分野を担当する国務大臣を任命し、内閣をつくります。内閣は、国会で決められた予算を使って、法律に従い、仕事を進めます。内閣のもとには、専門分野に分かれた府や省庁が置かれ、国の政治を行います。内閣は、国会で決められた法律や予算に基づき、国民の暮らしを支える仕事を行います。
オープニング
scene 09 憲法の三つの柱…

今日は、憲法の三つの柱の一つ、国民主権について学びましたが、ほかの柱を覚えていますか。次の柱は…。

くらしと政治③ 基本的人権と裁判所

くらしと政治③ 基本的人権と裁判所

scene 01 「基本的人権の尊重」

前回から国の政治の仕組みを見てきました。そして、国の在り方を定めた最も重要な決まりである「憲法」には、三つの大きな柱があることを学びました。今回は、その柱の二つ目、「基本的人権の尊重」について見ていきます。基本的人権とは、「自由」や「平等」など、だれもが持っている権利です。そして憲法によって保障されています。
オープニング
scene 02 ドキリ★憲法は国民全員に基本的人権を保障

基本的人権は、国民が生まれながらにして持っている権利です。たとえば、住む場所や職業を自由に選ぶことができる権利。自分の意見を自由に述べることができる権利。法のもとで平等にあつかわれる権利、などです。日本国憲法では、基本的人権を国民全員が持ち、だれもうばうことができない権利であることを保障しています。
オープニング
scene 03 憲法で保障された権利がおかされたら?

わたしたちは憲法で保障されたいろいろな権利を持っています。しかし、この大切な権利がもしおかされたら大変です。また、権利どうしがぶつかってトラブルになることもあるかもしれません。そんなときたよりになるのが「裁判所」です。次は、裁判所について見てみましょう。
オープニング
scene 04 法律に基づいて国民の権利を守る裁判所

わたしたちが生活するなかで、とつぜん交通事故にあったり、お金をめぐるもめごとなどさまざまなトラブルに巻きこまれたりすることがあります。解決しようとしてもうまくいかない場合、どうすればいいのでしょうか。そのために、裁判所があります。裁判所では、法律に基づいて争いごとを解決したり、罪の有る無しを判断したりして、国民の権利を守ります。
オープニング
scene 05 刑事裁判と民事裁判

裁判には大きく二つの種類があります。「刑事(けいじ)裁判」と「民事裁判」です。刑事裁判は、人を傷つける、物をうばうなどの犯罪をあつかいます。法廷(ほうてい)では裁判官のほかに被告人(ひこくにん)、弁護人、検察官が出席します。被告人は罪を犯したと疑われうったえられた人。弁護人は被告人の言い分を聞きその立場を守ります。検察官は裁判官に証拠(しょうこ)を示して被告人の処罰(しょばつ)を求めます。一方、民事裁判は、お金の貸し借りや、家や土地をめぐる争いごとなどの解決をめざします。裁判官はどちらの裁判でも、異なる立場の言い分をよく聞き、公正に判断しなければなりません。
オープニング
scene 06 「裁判員制度」のスタート

2009年からは、国民が刑事(けいじ)裁判に参加する「裁判員制度」がスタートしました。それまでの裁判は、法律の専門家である裁判官、弁護人、検察官が行っていたため、国民から、「裁判はむずかしい」とか「あの判決はわかりにくい」と言われることがありました。そのため、国民の意見や感覚を裁判に取り入れようと、一般(いっぱん)の人たち6人が加わる裁判員制度が始まったのです。
オープニング
scene 07 歴史にドキリ★豆知識

江戸時代には「町奉行(まちぶぎょう)」という役職が置かれ、うったえた人とうったえられた人を奉行が奉行所によびだして裁いていました。今の裁判制度とはかなりちがっていたのです。
オープニング
scene 08 判決に納得できないときは

では、裁判所の下した判決に納得がいかなかったときはどうすればいいのでしょうか。裁判のしくみを見ると、判決に納得できないときはさらに上の裁判所にうったえることができるようになっています。裁判をより慎重(しんちょう)に行い、まちがいがないようにするしくみなのです。さらに、裁判所にはほかにも大きな仕事があります。それはなんと、国の政治をチェックするという重要な役割です。
オープニング
scene 09 国の政治をチェックする役割

1996年、東京都内に住む人たちが国や東京都などをうったえて裁判を起こしました。うったえを起こしたのは、ぜんそくなどの病気に苦しむ人たちです。病気の原因となった排気(はいき)ガスの対策をおこたった責任が国などにあると主張しました。11年にわたる裁判の結果、裁判所はうったえた人たちの主張を認め、話し合いによる解決をすすめました。裁判所が国の政治をチェックすることで、わたしたちの暮らしや権利を守ることに大きな役割を果たしたのです。
オープニング
scene 10 ドキリ★権力の集中を防ぐ三権分立のしくみ

裁判所は、国が行う政治が憲法に違反(いはん)していないかを審査(しんさ)する権限も持っています。国会がつくった法律について、憲法に違反していないかを調べるのも裁判所の役割です。国の政治は、国会、内閣、裁判所の三つが、それぞれ立法、行政、司法の仕事を行っています。三つの機関がおたがいをチェックしあいながら政治を行うことで、一つの機関に権力が集中することを防ぐ。このしくみを「三権分立」といいます。日本の政治は、この三権分立によって成り立っているのです。
オープニング
scene 11 憲法の三つの柱…

ここまでは、憲法の三つの柱のうち、国民主権、基本的人権の尊重について見てきました。いよいよ最後は三つめの柱、「平和主義」です…。

くらしと政治④ 平和主義と世界の中の日本

くらしと政治④ 平和主義と世界の中の日本

scene 01 日本は今何をなすべきか

今日は日本国憲法三つ目の柱、「平和主義」についてです。日本は太平洋戦争で大きな犠牲(ぎせい)をはらいました。その体験から、日本国憲法の前文には、二度と戦争を起こさないという平和への決意が記されています。また憲法第9条では、外国との争いを武力で解決しないこと、そのための陸海空軍などの戦力を持たないことを定めています。平和主義をかかげた日本が今、世界の中で何をなすべきか。まずは、世界の平和と安全の実現のために努力している世界的な組織、「国際連合」=国連について、見てみましょう。
オープニング
scene 02 平和と安全のための国際連合

世界平和のために活動する組織、国連。現在、190か国以上の国々が加盟しています。国連は、第二次世界大戦が終わった1945年に、世界の51か国が集まり、発足。一つの国だけでは解決できないさまざまな問題に、各国が協力して取り組んできました。
オープニング
scene 03 国連のさまざまな機関

国連には、問題解決のためのさまざまな専門機関があります。たとえばユニセフ(国連児童基金)。戦争や災害、飢(う)えに苦しむ子どもたちへの救援(きゅうえん)活動を行う機関です。WHO(世界保健機関)は、伝染病の予防など人々の健康を守るための活動を行っています。日本も太平洋戦争のあと食料が不足し、学校給食など15年間にわたってユニセフから援助を受けました。2011年の東日本大震災でも、被災者(ひさいしゃ)の心のケアなどの援助を受けています。
オープニング
scene 04 ドキリ★国連の一員として世界平和に貢献する

国連がさまざまな活動をするための資金は、各国が分担して出します。日本はアメリカに次いで二番目。全体の10%あまりを負担しています。また、世界各地で起こる災害や紛争(ふんそう)地域に対しても、日本は積極的に救援(きゅうえん)活動を行っています。国同士が助け合う国連の活動。平和主義をかかげる日本だからこそ、世界の平和に貢献(こうけん)することが求められています。
オープニング
scene 05 世界のための援助活動の形

たとえば100円をユニセフに募金(ぼきん)すれば、ポリオワクチンを8人の子どもに接種することができます。わたしたち個人でも世界のために援助(えんじょ)を行うことができるのです。国連以外の援助活動には大きく分けて二つの形があります。一つは、国や政府が行うODA(政府開発援助)。鉄道や橋、ダムなど大規模な開発援助や、知識や技術を海外で活かす「青年海外協力隊」の活動などを行っています。そしてもう一つが、NGO(非政府組織)。民間が行う援助活動で、地域に密着したきめ細やかな援助が特徴(とくちょう)です。このNGOの援助活動の現場を見てみましょう。
オープニング
scene 06 途上国カンボジアで

東南アジアのインドシナ半島に位置するカンボジア。近年、著しい経済成長をとげる一方で、多くの貧しい人たちが暮らす開発途上国(とじょうこく)です。カンボジア中部にあるトンレサップ湖。東京都とほぼ同じ面積の湖で、100万人もの人々が水の上に家を作って暮らしています。漁業を中心とした人々の収入は、日本円で月およそ8000円。カンボジアの中でも、貧しい家庭が多い地域です。
オープニング
scene 07  NGOが開設した診療所

ここに、欧米(おうべい)のNGOが5年前に開設した診療所(しんりょうじょ)があります。この診療所で看護師として働く日本人の前原(まえはら)とよみさん。20年におよぶ看護師の経験を買われ、一年半前からこの診療所に勤めています。大学卒業後、新生児センターで働いていた前原さん。海外で人々の役に立ちたいと、31歳(さい)のときカンボジアの小児病院で働き始めました。そのとき、無償(むしょう)で医療(いりょう)活動を行うこのNGOの存在を知り、活動に加わったのです。
オープニング
scene 08 子どもたちの栄養状態を改善したい

前原さんが今いちばん気にかけているのが、子どもたちの栄養状態です。6歳(さい)のキアちゃんは、体が弱く、この一年体重がまったく増えていません。キアちゃんの家の収入は、月3000円。村でも特に貧しく、十分な栄養がとれていません。なんとか子どもたちに栄養をとってもらう方法はないか。前原さんは、村で唯一(ゆいいつ)野菜作りをしている家があると聞いてさっそく見学に行きました。野菜は土を盛ったいかだの上で育てられていました。これならどの家庭でも栽培(さいばい)できそうです。
オープニング
scene 09 ドキリ★地域や住民に密着した息の長い援助活動を

前原さんは、村の人たちに野菜の栽培(さいばい)をよびかけることにしました。今ある条件の中で、できることを少しずつ。地道な援助(えんじょ)活動が続きます。「すごいことを一回するよりも、すごいことじゃなくてもいいからずっと続けることが大切で、“細く長く”なんですよね」(前原さん)。ともになやみ、考える。地域や住民に密着した援助活動に取り組む前原さんのような日本人が、世界各地で活躍(かつやく)しています。
オープニング
scene 10 あなたの国際協力のスタート!

今回は、憲法で「平和主義」をかかげる日本が行っている国際協力について見てきました。こうしている今も、世界には戦争や災害、飢(う)えに苦しんでいる人たちがいます。もしそれが、自分や家族だったら…。心が“ドキリ”としたとき、それがあなたの国際協力のスタートになるかもしれません。そう、よりよい未来をめざして!

第41回 戦争 そして戦後

第41回 戦争 そして戦後

■ scene 01 明治以降の激動の時代

中村獅童(なかむら・しどう)歴史研究所では、日本の歴史に名を残した人々の業績やその思いを研究してきました。
古代、占(うらな)いで国を治めた卑弥呼(ひみこ)から、明治の小説家・夏目漱石まで、すばらしい才能と懸命(けんめい)な努力をした人ばかりでした。
『歴史にドキリ』。
今回は、明治以降の激動の時代を見ることにしましょう。


■ scene 02 外国との戦争を経験していく日本

明治時代、「富国強兵」をかかげた日本は、やがて外国との大きな戦争を経験します。
1894年には清(しん)、今の中国と、1904年にはロシアと戦争し、ともに勝利してアジアの強国となりました。
しかし、昭和に入ると、世界中が不景気になり、都市では失業者が増加。
農村では不作が続き、経済は停滞(ていたい)します。
日本はこれを打開しようと考え、中国の東北部に満州国(まんしゅうこく)をつくります。
そして、広大な土地と豊かな資源を求め、中国各地を武力で次々と占領(せんりょう)。
日中戦争となりました。


■ scene 03 すべての国民を巻きこんだ太平洋戦争

日本はさらに、石油や鉄などを求めて東南アジアや太平洋の島々にも軍隊を進めます。
この動きを警戒(けいかい)したアメリカやイギリスなどは、石油の輸出を禁止するといった制裁を日本に加えました。
これに反発した日本は、1941年、ハワイにあるアメリカ軍の基地を爆撃(ばくげき)。
太平洋戦争が始まりました。
日本では男の人が次々に戦場に送り出され、残った女性たちも、国を守るためにと訓練を重ねました。
武器を作る工場で働く子どもたち。
すべての国民が戦争のうずの中に巻きこまれていったのです。


■ scene 04 ドキリ★15年間、戦争を続け多くの犠牲をはらった

アメリカを中心とする連合軍は、圧倒(あっとう)的な軍事力で日本軍を各地で破り、やがて日本本土への空襲(くうしゅう)を開始します。
その空襲から子どもたちを守るために、安全な地方に移動させる「疎開(そかい)」も行われました。
勉強以外に農作業も行うなど、きびしい毎日。
親と遠くはなれた生活は、さびしくつらいものでした。
そして、1945年8月6日に広島、9日には長崎に原子爆弾(ばくだん)が落とされ、一瞬(いっしゅん)にして何万人もの人々が亡くなりました。
8月15日、日本は降伏(こうふく)。
日本だけでも300万人以上の犠牲(ぎせい)をはらった戦争は終わりました。


■ scene 05 戦後の日本の道のりは

国と国、人と人が争い、多くの命がうばわれた戦争。
わたしたちの両親や祖父母が実際に体験した歴史です。
では、戦争を終えた日本が、その後どのような道のりをたどって今の社会をつくったのか、見てみましょう。


■ scene 06 平和をねがう民主的な国家として

戦後の日本は、アメリカを中心とする連合軍に占領(せんりょう)され、民主的な国家として歩み始めます。
新しい憲法「日本国憲法」では、国民が主権を持つこと、すべての人が持つ「人間としての権利」を尊重すること、そして、永久に戦争をしないことが定められました。
1950年、朝鮮戦争が起き、アメリカ軍から物資の発注を受けたことで、日本経済は活気を帯びます。
1951年のサンフランシスコ講和会議で、日本は48か国と平和条約を結び、国際社会に復帰します。
日本経済はその後も発展を続け、高度経済成長が始まります。


■ scene 07 世界第2の経済大国へ

そして1964年、アジアで初めてのオリンピックが東京で開かれました。
競技会場をはじめ、高速道路や新幹線が建設され、日本の復興と発展を世界に示しました。
一般(いっぱん)の家庭にも、テレビや冷蔵庫、洗濯(せんたく)機などの電気製品が普及(ふきゅう)しました。
1970年代には、カラーテレビ、クーラー、自動車が人々のあこがれとなり、生活はどんどん豊かになりました。
敗戦からわずか20年あまりで急速な経済成長をとげた日本は、当時、アメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となりました。


■ scene 08 ドキリ★急速な経済成長をとげ先進国となった

それからおよそ40年。昭和から平成にかわった今も、日本は先進国の一つとして歩んでいます。
民族や宗教のちがいから生まれる紛争(ふんそう)。
無差別に人の命をうばうテロ。
世界的に進む環境破壊(かんきょうはかい)。
こうした世界の問題に、日本はどう向き合うのか。
敗戦から立ち直り、急速な経済成長をとげ、豊かな生活を手に入れた日本だからこそできることがあるはずです。


■ scene 09 「歴史ほどドキリとするものはない」

明治から昭和、そして平成の今。
今という時は、その前の何百年、何千年という長い歴史とつながっています。
そして、目の前に広がる「明日」という未来。
過去から未来へ、歴史をつなぐのは、あなた方です。
「♪歴史ほど ドキリわくわく 心おどるものはない…♪」。
それでは、また会いましょう!

くらしと政治① わたしたちのくらしと行政

くらしと政治① わたしたちのくらしと行政

scene 01 安心してくらしていける町づくり

ここは、中村獅童(なかむら・しどう)歴史研究所。所長の中村獅童さんが、ゴミの分別をしています。ところで、このゴミはだれが回収してくれるか知っていますか。小さい子どもからお年寄りまで、わたしたちが安心してくらしていける町づくりは、だれがやっているのでしょうか。みんなが幸せに生活していくために必要な、政治や社会のさまざまなことがらについて学んでいきましょう。『歴史にドキリ・特別編 くらしと政治』。まずは、わたしたちの身近な「政治」から見ていきます。
オープニング
scene 02 役所の仕事「行政」

わたしたちが安心してくらせる町づくりを行っているのは、市や町などにある役所です。その役所の仕事を「行政」といいます。神奈川県厚木(あつぎ)市役所でも、市民のために多くの仕事を行っています。市民課は、引っこしてきた人や新しく生まれた子どもの登録などが仕事です。ゴミの処理は環境(かんきょう)事業課の担当。火災や救急に備える消防署は、24時間体制で厚木市民の安全を守ります。危機管理課は地震(じしん)などの大きな災害に備えています。厚木市では、2011年に起きた東日本大震災を受け、防災対策をより強化しました。
オープニング
scene 03 ドキリ★どんなときも安心して過ごせるように

たとえば、災害時に市民を安全な場所に誘導(ゆうどう)したり、毛布や食料の配布場所を伝えたりする防災行政無線。厚木市役所では2012年に、無線が聞こえづらい地区を洗い出し、新たに10基設置しました。ガス、水道、電気が止まってしまったときの食料の確保についても見直し、25,000人分の食料や毛布を保管しています。さらに、家に帰る交通手段がなくなってしまった人たちが一時的に避難(ひなん)できる場所を新たに設置しました。役所が行う仕事、「行政」。わたしたちがどんなときも安心して過ごせるように、役所はさまざまな対策をすすめています。
オープニング
scene 04 行政が使うお金はどこから?

行政が使うお金はいったいどこから出ているのでしょうか。ヒントは、買い物をしたときのレシート。そこには「消費税」の文字があります。そう、行政にかかる費用は、「税金」でまかなわれています。みんながお金を出し合って、安心してくらせる町づくりをしているのです。では、どのように税金が使われているのか、見てみましょう。
オープニング
scene 05 市民が納める税金で

行政の仕事を行うための費用は、市民が納める税金などでまかなわれています。税金は、いろいろな形で納められます。働いて受け取る給料からは、住民税を直接市区町村に納めます。また、買い物をしたときにかかる消費税は、いったん国に納め、その一部を国が市区町村に分配します。市民が納める税金や国からの補助など、厚木市では年間およそ750億円が行政に使われています。
オープニング
scene 06 歴史にドキリ★豆知識

日本の「税」に関する最も古い記録は、今からおよそ1800年前の『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に書かれています。卑弥呼(ひみこ)が治めていた邪馬台国(やまたいこく)では、税を納めていたといわれています。納めていたのは、植物の種や織物だったと考えられています。
オープニング
scene 07 大切な税金を使うために

大切な税金は、市民の願いを実現するために使われなければなりません。そのために市では、聞き取り調査をしたり、アンケートをとったりして、市民の声を集めます。そして、予算や計画案を立てます。こうしてまとめられた案は、市民によって選挙で選ばれた議員が議論し、実行するかどうかを決定します。
オープニング
scene 08 ドキリ★税金は市民の願いを実現するために使われる

市民の声をもとに始まったさまざまな事業。新潟県上越(じょうえつ)市では、市が車と運転手などの費用を負担して移動販売(はんばい)を行っています。町から遠く買い物が不便な地域に、生活必需(ひつじゅ)品を届けます。横浜市には自宅の近くに子どもを預けられる施設(しせつ)がないという声が寄せられ、保育園を新たにつくりました。さらに、「保育コンシェルジュ」という保育専門の相談員を配置して、保護者の相談を受けています。わたしたちの税金は、市民の願いを実現する行政の仕事に使われています。
オープニング
scene 09 ユニークな行政の取り組み

ちょっとユニークな行政の取り組みもあります。東京都葛飾(かつしか)区役所には「すぐやる課」という課があります。スズメバチの駆除(くじょ)など、区民からの相談事にすばやく対応します。埼玉県鴻巣(こうのす)市役所では、市民のボランティアや観光協会と協力して『びっくりひな祭り』を毎年行っています。およそ380年もの歴史がある町の伝統工芸を守っているのです。沖縄県石垣(いしがき)市役所は、サンゴを食いあらすオニヒトデを駆除(くじょ)しています。沖縄のきれいな海を守ることにも行政は一役かっているのです。
オープニング
scene 10 みんなの町はみんなでつくる

みんなの町は、みんなでつくる。行政にまかせっきりにしないで、自分たちが納めた税金がどのように使われているのかを知ることも大切です。

第38回 北里柴三郎・野口英世~世界で活躍した日本人~

第38回 北里柴三郎・野口英世~世界で活躍した日本人~

■ scene 01 “雷おやじ” 北里柴三郎

「伝染病から人類を守るためにがんばらないと!」。
細菌(さいきん)学者の北里柴三郎(きたさと・しばさぶろう)は、いろいろな伝染病を研究し、治療(ちりょう)法も発見しました。
研究のこととなるとついカーッとなってしまう北里柴三郎を、弟子たちは「ドンネル先生」、ドイツ語で“雷(かみなり)おやじ”とよびました。


■ scene 02 「伝染病から人を守ることが私の使命」

明治時代には世界で活躍(かつやく)する日本人たちが登場し始めます。
北里柴三郎はその一人です。
150年ほど前、開国したばかりの日本に外国からコレラという伝染病が入ってきました。
コレラは日本中に広がり、多くの人の命をうばいました。
北里の生まれたのは今の熊本県小国町(おぐにまち)。
二人の弟もコレラで亡くなります。
この経験が彼(かれ)に医者になることを決意させたのです。
「伝染病から人を守ることが私の使命」と考えた北里は、役所に入り、研究者となります。
そして伝染病の研究で世界トップのドイツへ、国から派遣(はけん)されました。


■ scene 03 ドキリ★破傷風の治療法を発見し世界的な学者に

そこで彼(かれ)は、破傷風(はしょうふう)という病気の研究に取り組みます。
この病気は、傷口から入った破傷風菌(きん)が出す毒素が原因です。
治療(ちりょう)法を探していた北里は、その毒素を動物に注射してみました。
すると血液の中に、毒素を中和する成分が見つかったのです。
その成分を取り出して人に注射すると、病気が治りました。
北里が発見した世界初の治療法は「血清療法(けっせいりょうほう)」とよばれました。
北里の名前はヨーロッパ中に知れわたり、世界的な学者となりました。


■ scene 04 日本初の伝染病研究所

留学を終え、帰国した北里が最初に取り組んだのが、伝染病専門の研究所をつくることでした。
国にその必要性をうったえますが、聞き入れられませんでした。
そんな彼(かれ)を支援(しえん)してくれたのが、友人の福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)です。
自らの土地を提供した福沢のおかげで、日本で初めての伝染病研究所が完成しました。
所長となった北里は、公衆衛生の大切さを説き、伝染病を防ぐための法律もつくりました。


■ scene 05 弟子の育成にも注力

北里は、弟子の育成にもきびしく力を注ぎます。
弟子たちは北里のことを、親しみをこめて、ドイツ語で「ドンネル先生」、“雷(かみなり)おやじ”とよびました。
門下生からは、赤痢菌(せきりきん)の治療(ちりょう)法を確立した志賀潔(しが・きよし)や、黄熱病(おうねつびょう)の研究をした野口英世などの研究者が育ちました。


■ scene 06 北里の門下生、野口英世

野口英世は、黄熱病(おうねつびょう)の研究で世界的に注目されました。
北里の門下生だった野口は、1900年、伝染病研究が進んでいたアメリカにわたります。
そこで、ねる間もおしんで研究を続けた野口は、ヘビの毒や梅毒(ばいどく)の研究で業績をあげ、国際的に認められます。
次に彼(かれ)が取り組んだのが、熱帯地域で大流行していた伝染病、「黄熱病」の研究です。
中南米やアフリカに出向き、現地で研究を開始します。
病原菌(びょうげんきん)のサンプルを大量に集め、実験をくりかえしました。


■ scene 07 ドキリ★黄熱病の研究で世界的に注目された

しかし、研究のとちゅうで自身も黄熱病にかかり、51歳(さい)で亡くなりました。
命をかけて黄熱病と戦った野口の墓には、「人類のために生き、人類のために亡くなった」と刻まれ、業績がたたえられています。
野口英世は、黄熱病の研究で世界的に注目されたのです。

第39回 田中正造・平塚らいてう~市民運動の高まり~

第39回 田中正造・平塚らいてう(らいちょう)~市民運動の高まり~

■ scene 01 女性が自由に生きられる世の中に

「もっと自分を高めて可能性を広げたい」。平塚らいてう(らいちょう)は、大学を卒業してからも、文学や英語を学びながら小説を書いていました。
勉強したことや才能を生かしたいと思ったのです。
しかし、「男は仕事、女は家庭」という当時の世の中ではなかなか簡単にはいきません。
らいてうの時代は大学で学ぶ女性が増え、女性の仕事も増えつつありました。
それなのに、「女は家庭」など男女差別があったのです。
らいてうは、女性が自由に生きられる、そんな世の中にしたいと考えました。


■ 
scene 02 「良妻賢母」を期待された時代

平塚らいてうは、明治時代の後半から昭和にかけて、女性の地位向上のために力をつくした人物です。
明治時代、日本では女性が社会に出て活躍(かつやく)できる場所はほとんどありませんでした。
当時の女性たちは「良妻賢母(りょうさいけんぼ)」、つまり、「良き妻、かしこい母」として、子どもを産み育て、家を守ることを期待されたのです。
そんな教育が苦痛だったらいてう、女学校時代には、仲間たちと“海賊(かいぞく)組”と名乗り、授業をぬけ出したこともありました。
大学を卒業したあとも、女性が社会で活躍できないことに不満をつのらせていきます。


■ scene 03 「元始、女性は実に太陽であった」

1911年、らいてうは大学時代の友人たちと、女性が自由に意見を述べられる場を女性だけでつくろうと決心します。
そして発表されたのが、文芸雑誌『青鞜(せいとう)』です。
らいてうは、その中でこう語っています。
「元始(げんし)、女性は実に太陽であった。今、女性は月である」。
女性は本来、自ら光を放つ太陽のような存在であるのに、今はまるで月のように他人に依存(いそん)している。
さらに、「天才は男性にあらず、女性にあらず」。
天才、つまり才能は、男女の性別には関係ない。
女性もそれぞれの才能を発揮するべきだと宣言したのです。


■ scene 04 ドキリ★『青鞜(せいとう)』を作り、女性の自立をあとおしした

『青鞜』の反響(はんきょう)は大きく、らいてうのもとには共感した多くの女性が訪ねてきました。
当時のことを語るらいてうの声が残っています。
「書いてるときは、そんなに大勢の人が動いてくれるとは思わなかった。
みんなが不満を感じていても、おさえられていたので出てこられなかったものが、私というものを借りてパッと外に出たという形でしょうね」。
らいてうの『青鞜』は、女性たちの自立を大きくあとおししました。


■ scene 05 自由や権利を求めて

その後も、らいてうは「新婦人協会」を設立し、女性の選挙権を求める活動などを続けました。
女性の自立のために生涯(しょうがい)力をつくしたらいてう。
明治以降、らいてうをはじめ多くの人が、自由や権利を求めて立ち上がったのです。


■ scene 06 足尾鉱毒事件

明治時代、社会の矛盾(むじゅん)を正そうと、多くの人たちが立ち上がりました。
足尾(あしお)鉱毒事件に生涯(しょうがい)取り組み続けた田中正造も、その一人です。
欧米(おうべい)諸国に追いつこうとしていた日本では、兵器や機械を作るため、鉄や銅をあつかう重工業が急速に発達しました。
しかしその影響(えいきょう)で、栃木県の足尾銅山では、工場のけむりが木々をからし、鉱毒の混じった水が川に流されたことで農作物がかれ、魚が死ぬ被害(ひがい)が出たのです。


■ scene 07 決死の行動

栃木県に生まれ育ち、国会議員になった田中正造は、足尾銅山の鉱毒をなくす対策を何度も政府に求めました。
しかし、正造の意見は聞き入れられず、被害(ひがい)をうったえようとした農民たちと警官たちが衝突(しょうとつ)する事件も起きました。
このままではいけない…。
正造はついに決死の行動に出ます。
苦しむ農民たちの現状を、直接明治天皇にうったえようとしたのです。


■ scene 08 ドキリ★公害への問題意識を広めた

「おねがいがございます!」。
馬車に乗った天皇に手紙をわたそうとした正造は、すぐさま警官に取りおさえられました。
死刑(しけい)になってもかまわないという覚悟(かくご)で直訴(じきそ)にふみきった正造。
多くの新聞がこの事件を大々的に報じ、公害に対する問題意識が国民に広まるきっかけになりました。


第40回 夏目漱石・樋口一葉~明治時代の文学~

第40回 夏目漱石・樋口一葉~明治時代の文学~

■ scene 01 『吾輩は猫である』の作者

夏目漱石は、大学の教師を辞めて新聞社に転職し、本格的に小説家としての歩みを始めました。
『吾輩(わがはい)は猫(ねこ)である』、『坊(ぼ)っちゃん』などの作者です。


■ scene 02 日本を代表する小説家

夏目漱石は、今から100年ほど前に活躍(かつやく)した、日本を代表する小説家です。
大学で英文学を学んだ漱石は、卒業後、中学校の英語教師として愛媛県松山市に赴任(ふにん)します。
このころ、漱石は松山出身の俳人・正岡子規と交流を深めます。
子規から俳句を習うなど大きな影響(えいきょう)を受けた漱石。
この出会いは、小説家・夏目漱石誕生のきっかけになりました。


■ scene 03 イギリス留学を機に

1900年、漱石は、国からの要請(ようせい)でイギリスのロンドンに留学します。
英文学の研究に没頭(ぼっとう)する漱石でしたが、一方で、明治維新(いしん)以来、西洋のまねばかりしている日本に疑問を持つようになります。
「日本は真に目が醒(さ)めねばダメだ」(当時の日記より)。
うわべだけでなく、日本人としてどうあるべきか。
留学は、漱石にとって、日本を、そして自分を見つめ直す機会になります。


■ scene 04 一躍ベストセラー作家に

帰国後、漱石は大学で英文学を教えるかたわら、小説を書き始めます。
漱石の初めての作品、『吾輩は猫である』。
猫の視点で、当時の日本人の文化や暮らしをユーモラスに風刺(ふうし)をこめてえがき、大評判になりました。
その冒頭(ぼうとう)――
「吾輩は猫である。
名前はまだ無い。
どこで生まれたか頓(とん)と見当がつかぬ…」。
さらにその翌年、松山での教師体験をもとにした『坊(ぼ)っちゃん』もヒットし、漱石は一躍(いちやく)、ベストセラー作家となります。


■ scene 05 「いかに生きるか」という苦悩をえがく

40歳(さい)のとき、漱石は勤めていた大学を辞めて新聞社に転職。
本格的に小説家としてデビューします。
何か書かないと生きている気がしないのである」。
その後も漱石は、『三四郎』、『それから』、『心』など次々と作品を発表します。
これらの作品でえがかれたのは、近代化で変わりゆく明治の世で、いかに生きるか苦悩(くのう)する人物です。
漱石の小説は激動の時代に生きた多くの読者から深い共感をよび、世代をこえて読みつがれていきます。


■ scene 06 ドキリ★明治の文学界をリードした

漱石を慕(した)って、漱石の家には小説家を志す者や学者など、多くの弟子が集まりました。
“漱石山脈”といわれるはば広い人脈のなかには、『羅生門(らしょうもん)』などで知られる芥川龍之介の姿もありました。
漱石は、日本人の生き方をするどく見つめた小説で、明治の文学界をリードしました。


■ scene 07 若くして認められた文才

漱石と同じ時代に生きた女流小説家、樋口一葉。
一葉は十代のころから和歌や詩歌の勉強にはげみ、文才を認められました。
しかし、一葉が17歳(さい)のとき父親が亡くなり、一家は貧しい生活を強いられます。
そんななかでも一葉は小説を書き続けました。
あるとき、一家は多くの女性たちが働く飲食店街の近くに引っこします。
読み書きのできない彼女(かのじょ)たちに代わって手紙を書く一葉。
そうしたふれあいを通じて、貧しさのなかで働く女性たちの苦しみや悲しみを知ります。


■ scene 08 ドキリ★明治の庶民の感情をありのままにえがいた

その体験から生まれたのが、一葉の代表作『にごりえ』です。
夢も希望も持てない日々を生きる女性のやりきれない思いを、一葉は一字一句にきざみこみます。
「これが一生か、一生がこれか、ああ嫌(いや)だ嫌だ…」。
はき出されるありのままの感情。
それは、日々をけんめいに生きる一葉自身の心のさけびでもありました。
苦しみ、悲しむ人々を、自分が書く小説でなぐさめたい。
小説家として歩み始めた一葉でしたが、病気により、24歳(さい)の若さでこの世を去ります。

第35回 陸奥宗光・小村寿太郎~条約改正への道のり~

第35回 陸奥宗光・小村寿太郎~条約改正への道のり~

scene 01 陸奥宗光に認められて

小村寿太郎は、九州の飫肥藩(おびはん)という小さな藩(今の宮崎県の一部)の出身です。
倒幕(とうばく)運動の中心だった薩摩(さつま)藩や長州(ちょうしゅう)藩と比べると、当時は目立たない藩でした。
そんな小村が政治の道に入ったきっかけは、外務大臣の陸奥宗光が小村の能力を認めたからでした。
その陸奥宗光は、幕末に日本がアメリカやヨーロッパから結ばされた不平等条約の改正にいどみました。


■ scene 02 不平等条約「治外法権」

陸奥宗光は不平等条約「治外法権」の撤廃(てっぱい)に活躍(かつやく)した人物です。
幕末、紀州藩出身の陸奥は、江戸で坂本龍馬とともに海外との貿易を手がけました。
頭脳派で交渉(こうしょう)力に長けた陸奥を、龍馬は「刀無しで生きていけるのはおれと陸奥だけだ」と絶賛したといいます。
当時、鎖国(さこく)をやめた日本は外国との不平等条約に苦しんでいました。
その一つが、治外法権。
外国人が日本で罪を犯しても日本の法律で裁けないというものです。
日本は多くの国々から、こうした不平等な条約をおしつけられていました。


■ scene 03 ノルマントン号事件

明治時代になっても不平等条約は続き、あるとき、陸奥のふるさと和歌山県沖(おき)で大事件が起こります。
あらしでイギリス船ノルマントン号が沈没(ちんぼつ)。
イギリス人乗組員は脱出(だっしゅつ)しましたが、日本人の乗客25人は全員見捨てられ、亡くなりました。
事件の裁判を担当したのは日本人ではなく、イギリス人判事でした。
治外法権のためです。
救助の義務を果たさなかったにもかかわらず、イギリス人乗組員のほとんどが「無罪」となります。
この事件を受け、名だたる政治家たちが不平等条約の改正にいどみましたが、かないませんでした。


■ scene 04 大国イギリスを説得すれば

ノルマントン号事件から6年後、陸奥は外務大臣になり、条約改正にいどみます。
イギリスは手ごわい。
しかし同時に、この大国さえ説得できればほかの国との交渉(こうしょう)もやりやすくなるにちがいない。
陸奥は世界情勢に目を向けます。
当時、世界各地に勢力を広げていたイギリスにとって、最大の敵がロシアでした。
イギリスはロシアに対抗(たいこう)するために日本に協力を求めてきました。
陸奥はこのチャンスをのがさず、イギリスに協力する条件として、治外法権の撤廃(てっぱい)を持ちかけたのです。


■ scene 05 ドキリ★イギリスを説得し治外法権を撤廃

そして1894年、ついに、イギリスとのあいだで治外法権の撤廃(てっぱい)に成功。
陸奥の目論見(もくろみ)どおり、大国イギリスが改正に応じたと知ったほかの国々もあとに続き、15か国から治外法権の撤廃を勝ち取ったのです。
しかし、不平等条約はもう一つ残っていました。「関税自主権がない」ことです。


■ scene 06 「関税自主権の回復」にいどむ

関税自主権の回復にいどんだのは、今の宮崎県の武士の家に生まれた小村寿太郎です。
無名だった小村ですが、その博識ぶりを聞きつけた外務大臣陸奥宗光にさそわれ、外交官になりました。
小村がいどんだのは、関税自主権がない、つまり輸入品に自由に税をかけられないという不平等条約の改正でした。
1904年、日本とロシアのあいだで戦いが起こります。
日露(にちろ)戦争です。
日本は多くの犠牲(ぎせい)をはらいながらも、各地で勝利をおさめます。


■ scene 07 ねばり強く冷静な交渉

1年半におよぶ戦いの末、アメリカのポーツマスで日本とロシアの講和会議が開かれました。
当時外務大臣になっていた小村が、日本代表として出席しました。
ロシアから賠償金(ばいしょうきん)は取れませんでしたが、小村はねばり強く数々の条件を引き出しました。
そのがんこさと冷静な交渉(こうしょう)ぶりは、仲介(ちゅうかい)役を務めたアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトも舌を巻くほどだったといいます。

■ scene 08 ドキリ★日露戦争の勝利を追い風に関税自主権を回復

日露(にちろ)戦争の結果、アメリカは日本の力をみとめるようになっていました。
小村はそれを追い風に、条約改正交渉(こうしょう)に乗り出します。
1911年、ついに、アメリカなどの国々から関税自主権の回復に成功したのです。
幕末から50年あまりのあいだ日本を苦しめた不平等条約が、陸奥と小村たちの活躍(かつやく)により、改正された瞬間(しゅんかん)でした。

第36回 福沢諭吉~文明開化~

第36回 福沢諭吉~文明開化~

■ scene 01 学問の大切さを説いた教育者

『天は人の上に人をつくらず 人の下に人をつくらず』。
これは、「人はみな平等である」という意味。
この言葉を説いた明治時代の教育者、福沢諭吉は、日本にいち早く西洋の文化や考え方を伝えました。
現在の一万円札にえがかれている肖像画(しょうぞうが)が、福沢諭吉です。
福沢諭吉は学問の大切さをみんなに説きました。


■ scene 02 まず英語を学ぶ

およそ150年前、福沢諭吉は西洋の文化や考え方を広く日本に伝えました。
開国とともに、日本には西洋の文化が一気に流れこんできました。
横浜や神戸などには外国人の姿が目立つようになります。
福沢諭吉は横浜を訪れた経験から、西洋文化を理解するには英語を学ぶことが大切だと気づきました。
そして、いち早く英語を勉強した諭吉に大きなチャンスが訪れます。


■ scene 03 アメリカでの見聞

江戸幕府の咸臨丸(かんりんまる)で、アメリカに行くことができたのです。
諭吉はアメリカ西海岸の町、サンフランシスコを訪れました。
そこで、日本とはまったくちがう生活を目にします。
たとえば、男性が女性を大切にする“レディ・ファースト”という習慣に大きな衝撃(しょうげき)を受けました。
帰国後、「まるで日本とアベコベ」と本に記しています。


■ scene 04 西洋の国から学んだこと

アメリカへ行った翌年、諭吉はヨーロッパに行く使節団にも加わり、イギリスなどいろいろな国を見て回りました。
イギリスの議会を見学したときのおどろきをこう書きのこしています。
「対立する二つの政党が政治のことで喧嘩(けんか)をしている。
なのに、議会が終わると、同じテーブルで酒をくみかわし、食事をしている」。
議会では自分の考えをぶつけあい、議論が終われば仲間としてつきあう。
このように、意見の異なる人たちを尊重する精神を、諭吉は西洋の国から学びました。


■ scene 05 ドキリ★『西洋事情』で西洋の文化や考え方を広めた

帰国後、諭吉は『西洋事情』を出版。
自分の目で見た西洋の様子を、10巻にわたり、くわしく記しました。
この本には、政治や議会など国の基本となる仕組みをはじめ、学校や新聞、病院といった西洋のさまざまな文化が紹介(しょうかい)されています。
福沢諭吉は『西洋事情』で、西洋の文化や考え方を広めました。


■ scene 06 慶應義塾を開く

福沢諭吉は教育にも力を注ぎました。
1858年、諭吉は自分の財産をつぎこみ、塾(じゅく)を開きます。
のちの慶應義塾(けいおうぎじゅく)です。
この塾には、身分に関係なく学問を志す人たちが集まり、教育を受けました。
江戸の町で新政府軍と旧幕府軍が戦ったとき、大砲(たいほう)の音がひびくなかでも諭吉は講義を続けます。
そして塾生たちに、世の中で何が起ころうとも学ぶことをやめてはいけないと説いたといわれています。

■ scene 07 ドキリ★『学問のすゝめ』で学問の大切さを説いた

明治時代、服装や食べ物、建築など、西洋文化が日本中に広まりました。
これを「文明開化」といいます。
日本の暮らしが大きく変わるなかで、諭吉は学問の大切さを人々に広めようとしました。
そこで書いたのが『学問のすゝめ』です。
その中で諭吉は、「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」「一身独立して一国独立する」と説いています。
人間はみな平等であり、それぞれの国民が自立してこそ国は一人立ちする。
そして、国民一人ひとりが自立するには、学問でさまざまな知識を身に付けることが重要であるとうったえたのです。

第37回 渋沢栄一~近代化に尽くした人~

第37回 渋沢栄一~近代化に尽くした人~

■ scene 01 日本の経済を元気に!


渋沢栄一が活躍(かつやく)した明治時代の日本は、外国に負けない国を作るため経済を発展させる必要がありました。
そこで渋沢は、政治家としてではなく民間の立場から、日本の経済を元気にしました。
今の平成の世にはたくさんの会社があります。
渋沢はもっと昔の明治時代に、この原点ともいえるたくさんの株式会社を作ったのです。
株式会社とは、主に自分の利益のために運営する個人経営とは異なり、みんなでお金を持ち寄ることで大きなお金を生み出し、そのお金を使って事業をするというものです。


■ scene 02 農家に生まれ、幕府の家臣に

渋沢栄一は、幕末から昭和にかけて日本の経済をリードした人物です。
江戸時代の終わりごろ、渋沢は今の埼玉県の大きな農家に生まれました。
渋沢家は領主からたびたびお金を差し出すよう命じられていました。
ある日も、とつぜん五百両を要求されます。
ちゃんと年貢(ねんぐ)を納めているのに、そのうえ五百両とは。
自分たちが努力してためたお金を権力者が当たり前のように使うなんて納得できない。
渋沢はやがてふるさとをはなれ、大名・一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ)に仕えました。
慶喜はその後、徳川15代目の将軍に就任し、渋沢は幕府の家臣となりました。


■ scene 03 フランスで教わったこと

そんな渋沢に大きな転機が訪れます。
パリ万博に江戸幕府の一団として派遣(はけん)されたのです。
近代化したフランスの街に渋沢はおどろきました。
この旅で渋沢は、元銀行家のフランス人、フリューリ・エラールと出会います。
そして、フランスの繁栄(はんえい)を支えるのは「株式会社」の仕組みだと教わります。
会社を作るときに人々が自分のお金を出し合い、会社がうまくいって利益が出たら、それをみんなで分け合うというものです。
権力者がお金を吸い上げて事業を行うのではなく、人々がお金を投資するこの仕組みを、渋沢は日本でも広めたいと考えます。


■ scene 04 日本で初めての「銀行」を設立

そして帰国。
しかしそこにはおどろくべき事態が待っていました。
江戸幕府がたおされ、新しい時代が始まっていたのです。
渋沢も新しい経済の仕組みを作ろうと決心します。
まずは、株式会社の仕組みを使って、日本で初めての「銀行」を作ろうとしました。
人々によびかけ、銀行設立のためにお金を出してくれる「株主」をつのりました。
当時の株主名簿(めいぼ)には、大きな事業主から小さな事業主まで、71人が名を連ねました。


■ scene 05 ドキリ★明治時代の日本経済を大きく発展させた

こうしてついに、「株式会社 第一国立銀行」ができました。
ここでいう“国立”とは、“国の条例に基づく”という意味。
まぎれもなく、民間の人々の力で経営される会社が誕生したのです。
渋沢はさらに、紡績(ぼうせき)や海運業、鉄道などの株式会社を次々に設立・育成しました。
その数は500にのぼります。
渋沢は、明治時代の日本経済を大きく発展させたのです。


■ scene 06 逆境のときこそ行動を

渋沢76歳(さい)のときの映像がのこっています。
もうけ主義に走らず、日本経済のためにつくした渋沢は、多くの人からしたわれました。
その7年後、日本を大きな困難がおそいます。
関東大震災(しんさい)です。
第一線を退いていた渋沢は83歳にして再び立ち上がります。
経済界でのネットワークを生かして臨時病院や避難(ひなん)所などを次々に設置。
自らの家もたき出しのために使いました。
さらに、孤児(こじ)院を作り、震災で親をなくした子どもたちを助けました。
逆境のときは断固として行動を起こす。
おとろえることのない行動力の表れでした。


■ scene 07 ドキリ★関東大震災の復興や国際交流に貢献

渋沢は、生涯(しょうがい)を通して、国際交流にも力を入れました。
その一つが、“青い目の人形”の取り組みです。
日本とアメリカの子どもたちがたがいの国の人形を贈(おく)り合うというもので、渋沢は日本側の受け入れ窓口を務めました。
民間レベルでの交流を通し、世界との友好を深めたいと考えたのです。
人形は今も各地にのこされ、渋沢たちの思いを伝えています。
民間の力を信じ、日本を引っ張った渋沢。
その志は、経済人のわくを大きくこえたものでした。

第33回 板垣退助・大隈重信~明治の国づくり(議会政治)~

第33回 板垣退助・大隈重信~明治の国づくり(議会政治)~

■ scene 01 自由に政治に参加する権利を!

板垣退助は明治政府の役人でしたが、政府の職を辞し、「自由民権」について日本各地を演説して回りました。
「国民はみな、自由に政治に参加する権利を持っている。国民を政治に参加させろ!」。
自由民権運動は全国に広まり、はやりの歌ができるほどの人気になりました。
「♪オッペケペー オッペケペー オッペケペッポー ペッポッポー 天地の真理がわからない 心に自由の種をまけ オッペケペー オッペケペー…」。
楽しそうですが、これは西洋のまねばかりしている政府の役人たちを批判している歌なのです。


■ scene 02 政府に対して高まっていた不満

板垣退助は、明治政府に議会を開くことなどを求めた自由民権運動の指導者です。
土佐藩(とさはん)、今の高知県出身の板垣は、倒幕(とうばく)の功績により政府の重要な役職に就いていました。
明治時代、国の政治を行っていたのは、江戸幕府をたおした長州(ちょうしゅう)や薩摩(さつま)など一部の藩の出身者たちでした。
また明治政府は、武士階級が支配してきた「藩」を廃止(はいし)。
代わりに「府」や「県」を置き、政府が任命した役人を派遣(はけん)しました。
その結果、多くの武士たちが仕事も収入も失い、政府への不満を高めていきました。


■ scene 03 国民が政治に参加する権利

こうしたなか、板垣は政府をはなれ、民間の立場から政治を変えようと行動を起こします。
板垣は、「日本も欧米(おうべい)の国々のように議会を開き、国民の意見によって政治を行うべきだ」とうったえます。
そして、演説会や新聞などを通してこの考えを広める「自由民権運動」を始めました。
板垣の考えはやがて多くの国民に広がり、活発な議論を巻き起こしました。


■ scene 04 ドキリ★板垣たちによって自由民権運動が広まった

ある日。
演説を終えた板垣は暴漢におそわれます。
板垣は重傷を負いながらも、「板垣死すとも自由は死せず」と、自らの覚悟(かくご)を語ったと伝えられています。
板垣たちによって、国民が政治に参加することを求める自由民権運動が広まりました。


■ scene 05 国会開設を求める声

板垣の自由民権運動が高まるなか、政府にも、国会をつくることが必要だとうったえた人物がいました。
大隈重信です。
大隈は、憲法をつくり、選挙で選ばれた国民の代表が議会政治を行うべきだと主張しました。
ところが、国会開設はまだ早いと考える伊藤博文らと政府内で対立します。
その結果、大隈は政府を追われてしまいます。
政府内で激しい議論が行われているあいだにも、国会開設を求める声はますます全国で激しさを増していました。
その声におされる形で、1881年、政府は10年後に国会を開く約束をしたのです。


■ scene 06 初めての衆議院議員総選挙

板垣と大隈は、国会開設に向けて準備を始めます。
板垣は自由党、大隈は立憲改進党(りっけんかいしんとう)という政党をつくりました。
一方、明治政府の伊藤博文は、ドイツの憲法を手本として日本独自の憲法案をまとめます。
そして1889年、明治天皇が国民にあたえる形で大日本帝国(ていこく)憲法が発布されました。
翌年、憲法のもとで初めての衆議院議員総選挙が行われます。
こうして、全国から選ばれた300人の議員たちが集まり、第1回の帝国議会が開かれました。


■ scene 07 ドキリ★議会政治の始まりに大きな役割を果たした

日本の政治の中心、国会議事堂。
この議事堂の中央広間には、日本の議会政治に大きな功績をのこした板垣退助と大隈重信の銅像が建てられています。
板垣と大隈は、日本の議会政治の始まりに大きな役割を果たしました。

第34回 伊藤博文~明治の国づくり(帝国憲法)~

第34回 伊藤博文~明治の国づくり(帝国憲法)~

■ scene 01 自由に政治に参加する権利を!

板垣退助は明治政府の役人でしたが、政府の職を辞し、「自由民権」について日本各地を演説して回りました。
「国民はみな、自由に政治に参加する権利を持っている。
国民を政治に参加させろ!」。
自由民権運動は全国に広まり、はやりの歌ができるほどの人気になりました。
「♪オッペケペー オッペケペー オッペケペッポー ペッポッポー 天地の真理がわからない 心に自由の種をまけ オッペケペー オッペケペー…」。
楽しそうですが、これは西洋のまねばかりしている政府の役人たちを批判している歌なのです。


■ scene 02 政府に対して高まっていた不満

板垣退助は、明治政府に議会を開くことなどを求めた自由民権運動の指導者です。
土佐藩(とさはん)、今の高知県出身の板垣は、倒幕(とうばく)の功績により政府の重要な役職に就いていました。
明治時代、国の政治を行っていたのは、江戸幕府をたおした長州(ちょうしゅう)や薩摩(さつま)など一部の藩の出身者たちでした。
また明治政府は、武士階級が支配してきた「藩」を廃止(はいし)。
代わりに「府」や「県」を置き、政府が任命した役人を派遣(はけん)しました。
その結果、多くの武士たちが仕事も収入も失い、政府への不満を高めていきました。


■ scene 03 国民が政治に参加する権利

こうしたなか、板垣は政府をはなれ、民間の立場から政治を変えようと行動を起こします。
板垣は、「日本も欧米(おうべい)の国々のように議会を開き、国民の意見によって政治を行うべきだ」とうったえます。
そして、演説会や新聞などを通してこの考えを広める「自由民権運動」を始めました。
板垣の考えはやがて多くの国民に広がり、活発な議論を巻き起こしました。


■ scene 04 ドキリ★板垣たちによって自由民権運動が広まった

ある日。演説を終えた板垣は暴漢におそわれます。
板垣は重傷を負いながらも、「板垣死すとも自由は死せず」と、自らの覚悟(かくご)を語ったと伝えられています。
板垣たちによって、国民が政治に参加することを求める自由民権運動が広まりました。


■ scene 05 国会開設を求める声

板垣の自由民権運動が高まるなか、政府にも、国会をつくることが必要だとうったえた人物がいました。
大隈重信です。
大隈は、憲法をつくり、選挙で選ばれた国民の代表が議会政治を行うべきだと主張しました。
ところが、国会開設はまだ早いと考える伊藤博文らと政府内で対立します。
その結果、大隈は政府を追われてしまいます。
政府内で激しい議論が行われているあいだにも、国会開設を求める声はますます全国で激しさを増していました。
その声におされる形で、1881年、政府は10年後に国会を開く約束をしたのです。


■ scene 06 初めての衆議院議員総選挙

板垣と大隈は、国会開設に向けて準備を始めます。
板垣は自由党、大隈は立憲改進党(りっけんかいしんとう)という政党をつくりました。
一方、明治政府の伊藤博文は、ドイツの憲法を手本として日本独自の憲法案をまとめます。
そして1889年、明治天皇が国民にあたえる形で大日本帝国(ていこく)憲法が発布されました。
翌年、憲法のもとで初めての衆議院議員総選挙が行われます。
こうして、全国から選ばれた300人の議員たちが集まり、第1回の帝国議会が開かれました。


■ scene 07 ドキリ★議会政治の始まりに大きな役割を果たした

日本の政治の中心、国会議事堂。
この議事堂の中央広間には、日本の議会政治に大きな功績をのこした板垣退助と大隈重信の銅像が建てられています。
板垣と大隈は、日本の議会政治の始まりに大きな役割を果たしました。

第29回 坂本龍馬~幕末の動乱(倒幕側)~

第29回 坂本龍馬~幕末の動乱(倒幕側)~

■ scene 01 長州藩と薩摩藩を結びつける

坂本龍馬は、土佐藩(とさはん)、今の高知県出身の武士です。
龍馬は日本で最初の商社といわれる『亀山社中(かめやましゃちゅう)』という組織をつくり、物を売り買いしていました。
そのころ、長州(ちょうしゅう)藩は銃(じゅう)をほしがっていました。
しかし、銃を手に入れるのはむずかしいことでした。
そこで龍馬が思いついたのが、仲の悪い長州藩と薩摩(さつま)藩を結びつける方法です。


■ scene 02 開国により高まった幕府への不満

およそ150年前、幕末の時代に生きた坂本龍馬は、新しい日本をつくるために奔走(ほんそう)しました。
1853年にアメリカから黒船に乗ってやってきたペリーにより、日本は開国。
国内は混乱します。
外国との不平等な条約による物価の上昇(じょうしょう)などで生活は苦しくなり、幕府への不満が高まりました。
そして、江戸幕府を支えようとするグループと、幕府をたおして新しい国をつくろうとするグループが争うようになります。


■ scene 03 幕府をたおす決心

坂本龍馬は、今の高知県、土佐藩の武士の家に生まれました。
龍馬も、混乱する日本をどうにかしなければと考える一人でした。
故郷の土佐を出た龍馬は、江戸や京都、長崎など各地を回り、さまざまな人に出会って見聞を広めます。
幕府の実力者、貿易で国を発展させようという学者…。
なかでも、幕府の役人・勝海舟(かつ・かいしゅう)との出会いは龍馬に大きな影響(えいきょう)をあたえます。
勝は龍馬に、西洋に負けない国づくりの必要性を説きます。
このころ龍馬が書いた手紙にある『日本を一度洗濯(せんたく)して新しい国をつくる』という言葉。
龍馬は、幕府をたおす決心をしたのです。


■ scene 04 薩長同盟の立役者

龍馬が目をつけたのは、大きな力を持っていた薩摩藩と長州藩です。
この二つの藩が手を組めば、幕府に対抗(たいこう)できる力になります。
しかし薩摩藩と長州藩は倒幕(とうばく)をめぐって激しい対立をした過去がありました。
そこで龍馬は両藩の実力者、薩摩藩の西郷隆盛と、長州藩の桂小五郎(かつら・こごろう)に、ある取引を持ちかけます。
武器をほしがっていた長州には薩摩を通して外国製の鉄砲(てっぽう)をわたし、米が不足していた薩摩には長州の米をわたしました。
この取引がきっかけとなって、薩長同盟(さっちょうどうめい)が成立しました。


■ scene 05 ドキリ★薩長同盟、そして大政奉還

桂小五郎によって書かれた手紙には、薩長同盟の内容が記されています。
『戦いのときは、双方(そうほう)、おたがいに協力する』とあります。
薩長同盟が結ばれた翌年、ついに幕府は政権を朝廷(ちょうてい)に返します。
「大政奉還(たいせいほうかん)」です。
龍馬によって薩長同盟が結ばれ、幕府は朝廷に政権を返上しました。


■ scene 06 龍馬が考えた新しい政府のあり方

坂本龍馬は、江戸幕府がたおれたあとの新しい政府のあり方を思いえがいていました。
龍馬の考えをまとめた文章「新政府綱領八策(こうりょうはっさく)」には、人材を集め、議会をつくり、話し合いで政治を行うということが書いてあります。
龍馬は、いろいろな人たちの考え方を取り入れ、政治を行う仕組みをつくろうとしたのです。


■ scene 07 ドキリ★龍馬の考えが議会政治のもとに

明治政府の政治の方針を示した「五か条の御誓文(ごせいもん)」。
その第一条には、広く会議を開いて話し合って決める、など龍馬の考えの影響(えいきょう)が見られます。
龍馬の考えは、明治政府を支える議会政治のもとになりました。
しかし、坂本龍馬は新しい時代を見ることなく、暗殺により、この世を去りました。

第30回 勝海舟~幕末の動乱(幕府側)~

第30回 勝海舟~幕末の動乱(幕府側)~

■ scene 01 日本の未来をえがく

勝海舟は、江戸幕府の「軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)」という海軍の責任者を務めていました。
幕府の役人ですが、全国のいろいろな藩(はん)の人たちとつきあいがありました。
そういう人たちと日本の未来について語り合ったのです。
イギリスの公使パークスとも親交があり、外国人との人脈も大切にしました。
勝はアメリカのサンフランシスコにも船で行ったことがあります。
勝はどのように日本の未来をえがいていたのでしょうか。


■ scene 02 海軍の創設を幕府に提案

勝海舟は、今から150年ほど前の幕末に活躍(かつやく)した、江戸幕府の役人です。
1853年、アメリカからペリーの艦隊(かんたい)が来航し、日本に開国を要求してきました。
国を開くべきか否か。
なやんだ幕府は、全国の大名から町人にいたるまではば広く意見を募集(ぼしゅう)しました。
蘭学(らんがく)を学び、西洋の進んだ知識を身に付けていた勝は、海軍の創設や西洋技術の導入を提案します。
これが注目され、勝は立身出世の道を進みます。


■ scene 03 咸臨丸でアメリカへ

そして勝は、1860年、幕府が派遣(はけん)する使節団に加わり、咸臨丸(かんりんまる)という船で太平洋を横断し、アメリカにわたります。
アメリカの近代的な町並みや進んだ産業におどろく勝。
何より、日本のように身分や家柄(いえがら)ではなく、選挙による公平で民主的な政治が行われていることに感心します。


■ scene 04 新しい日本を担う若者を育てる

アメリカから帰国して4年。
海軍の責任者になった勝は、神戸に海軍操練所(そうれんじょ)をつくります。
勝は、幕府の人間だけでなく、西洋の技術を学び新しい日本を担おうとする若者を、出身地や身分の分けへだてなく全国各地から集めました。
そのなかには、土佐出身の坂本龍馬のすがたもありました。
しかしそのころ、日本国内では開国か鎖国(さこく)かをめぐって各地ではげしい争いが起きていました。
混乱が続けばイギリスやフランスなど西洋の列強の介入(かいにゅう)を受け、日本は植民地になってしまう…。


■ scene 05 ドキリ★幕府や藩のわくをこえた国のあり方を示した

この国の行く末に危機感をいだいた勝は、薩摩藩士(さつまはんし)・西郷隆盛にこう語っています。
「今は日本人同士が争っている場合ではない。
西洋列強に対抗(たいこう)するには、諸藩がたがいに話し合い、協力する必要がある」。
その斬新(ざんしん)な発想に感服した西郷は、友人への手紙で勝をこう評しています。
『実に驚(おどろ)き入り候(そうろう)人物 ほれ申し候』。
今は日本人同士が争うのではなく、力を合わせるべきときだ…。
勝の考えは、周囲に影響(えいきょう)をあたえていきます。


■ scene 06 江戸へせめのぼる新政府軍

幕府と諸藩(しょはん)による新しい国をつくろうとする勝の考えに刺激(しげき)を受けた坂本龍馬は、薩摩藩と長州(ちょうしゅう)藩の仲を取り持ち、1866年、薩長同盟を成立させます。
それは皮肉にも、勝のいる江戸幕府をたおそうという一大勢力になります。
翌1867年、江戸幕府は、「大政奉還(たいせいほうかん)」によって政権を朝廷(ちょうてい)に返上します。
しかし、薩摩や長州を中心とする勢力は、あくまで徳川幕府を力でたおそうと新政府を樹立。
軍勢を江戸に進めます。


■ scene 07 無益な戦いはさけねばならない

新政府軍と戦うか、それとも従うか。
勝は冷静に事態を観察していました。
戦いになれば、混乱に乗じて西洋列強が介入(かいにゅう)してくる。
また、江戸の町が戦火に包まれれば多くの民衆が犠牲(ぎせい)になる。
江戸総攻撃(そうこうげき)の前日。
勝は、新政府軍の西郷隆盛との会談に臨みます。
かつて日本の未来について語り合った西郷なら、この無益な戦いをさけてくれるのではないか…。


■ scene 08 ドキリ★無血開城によって近代国家へのスタート

西郷と対面した勝は、攻撃(こうげき)中止を強くうったえました。
「ならば、江戸城をすぐにわたされるか?」(西郷)。
「城は、おわたし申そう」(勝)。
そして…。
「明日の江戸城総攻撃は中止する」(西郷)。
勝と西郷。
ともに日本の未来を思う両者の信頼(しんらい)関係が、江戸城無血開城を実現させたのです。
江戸城無血開城は、江戸から明治へ、近代国家日本の出発点になりました。

第31回 西郷隆盛・木戸孝允~明治の国づくり(倒幕運動)~

第31回 西郷隆盛・木戸孝允~明治の国づくり(倒幕運動)~

■ scene 01 強い日本をつくるために

現在の鹿児島県、薩摩藩(さつまはん)の武士であった西郷隆盛は、江戸幕府をたおして新しい政府をつくろうとしました。
なぜ幕府をたおすのか。
それは、強い日本をつくる必要があったからです。
1850年ごろの日本、外国から圧力を受けた江戸幕府は、国を開き、不平等な条約を結んでしまいました。
西郷たちは、強い外国と対等にわたりあうには、もっと日本を強くしなければならないと考えました。
そこで、薩摩藩と長州(ちょうしゅう)藩(現在の山口県)が、幕府をたおそうと立ち上がったのです。


■ scene 02 幕府に開国をせまったアメリカ

今からおよそ150年前、西郷隆盛は、江戸幕府をたおして「明治」という新しい時代をつくりました。
明治時代が始まる15年前、4隻(せき)のアメリカの軍艦(ぐんかん)が、今の神奈川県横須賀市の沖合いにやってきました。
“黒船”です。
率いていたのはアメリカ合衆国の使者、マシュー・ペリー。
開国を求める大統領の手紙を持っていました。
ペリーは幕府に、港を開き貿易することをせまります。
アメリカの強い態度と黒船の武力をおそれた幕府は、二つの条約を結びました。
しかしそれは日本にとって不利な内容でした。


■ scene 03 不平等な条約

その一つが、「治外法権(ちがいほうけん)」。
日本で外国人が罪を犯しても、日本の法律で裁くことができないというものです。
そしてもう一つが、「関税自主権(かんぜいじしゅけん)がない」こと。
物を輸入するときの税金をかける権利がなかったのです。
このような不平等な条約を、幕府は次々と結ばされてしまいます。
貿易が始まると、国内では物が不足したり、物価が上がったりして、人々の生活が苦しくなりました。
そのため、薩摩藩は外国との貿易に反対していました。


■ scene 04 イギリスと戦った薩摩藩は

1863年、薩摩藩はイギリスともめごとを起こし、軍艦(ぐんかん)から砲撃(ほうげき)を受けます。
イギリスのはげしい攻撃(こうげき)に、薩摩藩は手も足も出ない有様でした。
この戦いのあと、西郷は考えを変えます。
外国と対等に付き合うには、強い日本にする必要がある。
そのため、今の幕府をたおし、新しい国をつくることにしたのです。
各地で、幕府をたおす倒幕(とうばく)運動が起こり、はげしい戦いがくりかえされました。


■ scene 05 ドキリ★薩長同盟を結び倒幕運動を進めた

そのなかでも大きな力を持っていたのが、西郷の薩摩藩と、木戸孝允(きど・たかよし)の長州藩でした。
当初は仲の悪かった薩摩藩と長州藩を、坂本龍馬(さかもと・りょうま)がまとめます。
そして「薩長同盟」を結び、力を合わせて幕府をたおすことにしたのです。
西郷と木戸は薩長同盟を結び、天皇中心の新しい国をつくるため、倒幕(とうばく)運動を進めました。


■ scene 06 武士の時代の終わり

薩長同盟におそれをいだいた将軍・徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)は、1867年、将軍の職を辞退して、政権を朝廷(ちょうてい)に返します。
「大政奉還(たいせいほうかん)」です。
700年続いた武士の時代は、ここに終わりました。
しかし、旧徳川幕府を支持する人たちと新政府とのあいだで戦が起こります。
西郷はリーダーとして新政府軍を率います。
京都で始まった戦いは全国に広がり、1年半続いた末、西郷率いる新政府軍の勝利で終わりました。


■ scene 07 天皇を中心とした新しい政府

1868年、幕府をたおした薩摩藩と長州藩が中心となり、新しい政府がつくられました。
明治時代の始まりです。
木戸孝允は、明治天皇を中心とした新しい政府の方針づくりをしました。
それは、「五か条の御誓文(ごせいもん)」として世の中に示されました。
その第一条、「広く会議を興し、万機(ばんき)公論(こうろん)に決すべし」。
これは、「広く会議を開き、みんなの意見を聞こう」という意味です。


■ scene 08 ドキリ★木戸たちは新しい国のしくみを整えた

そして木戸は、日本のしくみを大きく変える改革を行います。
その一つが、「廃藩置県(はいはんちけん)」です。
大名と武士が支配してきた全国各地の藩を廃止。
代わりに府や県を置き、責任者として政府が任命した役人を派遣(はけん)しました。
政府の方針が直接全国各地に伝わるようにしたのです。
さらに、「廃刀令(はいとうれい)」を出し、武士に刀を捨てるように命じました。
そして江戸時代の身分制度を廃止し、国民はみな平等とする「四民(しみん)平等」の考え方を打ち出しました。
木戸たちの新政府は、天皇中心の新しい国のしくみを整えました。

第32回 大久保利通~明治の国づくり(富国強兵)~

第32回 大久保利通~明治の国づくり(富国強兵)~

■ scene 01 強くて豊かな日本をつくりたい

外国に負けない強くて豊かな明治の世をつくりたい。
そのために、工場をつくったり、武士の特権を取り上げたりと、思い切った政策を推し進めた大久保利通。そのせいか、大久保のことを冷たい人間だと言う人もいました。
しかし、大久保利通の胸の中は、熱い情熱でいっぱいだったのです。


■ scene 02 維新三傑の一人

大久保利通は、明治時代、外国に負けない強い日本をつくるために活躍(かつやく)した人物です。
今から180年ほど前、鹿児島県、当時の薩摩藩(さつまはん)の武士の家に生まれた大久保。
同じ藩の仲間に、西郷隆盛がいました。
大久保は西郷たちとともに江戸幕府をたおし、新たに明治時代が始まりました。
明治政府の中心人物となった大久保は、倒幕(とうばく)で活躍した西郷隆盛、木戸孝允(きど・たかよし)と並び、“維新三傑(いしんさんけつ)”と称(しょう)されます。


■ scene 03 海外視察で受けたおどろき

新しい国づくりを進める大久保に、大きな転機が訪れます。
岩倉具視(いわくら・ともみ)を中心とする使節団の一員として、海外視察のため欧米(おうべい)にわたったのです。
大久保たちは、進んだ海外の情勢におどろきました。
大久保が友人に送った手紙が残っています。
「イギリスには町ごとに工場がある。
リバプールの造船所、マンチェスターの木綿工場、製鉄所…。
こうした多くの工場が、イギリスの強さの秘密だ」。


■ scene 04 「これでは日本が勝てるはずがない」

当時、イギリスは“世界の工場”とよばれ、大規模な機械化でさまざまな製品が生み出されていました。
製鉄所の鉄鋼は世界中に輸出され、お菓子(かし)までもが機械で大量生産されていました。
大久保は思います。
「これでは日本が勝てるはずがない。
いち早く近代化し、技術力を高めなくては…」。
国を豊かにし、強い日本をつくる。
「富国強兵(ふこくきょうへい)」をめざしたのです。


■ scene 05 ドキリ★欧米視察で衝撃を受け富国強兵を推し進めた

大久保たち政府は、国が運営する「官営工場」を各地につくりました。
その一つが、富岡製糸場です。
当時重要な輸出品だった絹の糸、「生糸」がつくられました。
蒸気で動く機械を使って生産量は劇的に上がり、明治時代の終わりには世界一におどり出ます。
さらに、紡績(ぼうせき)や兵器製造など、官営工場づくりを推し進めました。
国を挙げて産業の発達をめざした政策を、「殖産(しょくさん)興業」といいます
(おうべい)に衝撃(しょうげき)を受けた大久保の富国強兵政策は、実を結びつつありました。


■ scene 06 ドキリ★地租改正で国の収入を安定させた

国の力を強くするためには、その収入を安定させる必要があると大久保は考えます。
そこで行ったのが、「地租(ちそ)改正」です。
明治時代になっても、国の収入は農民が納める米にたよっていました。
しかし、年によって米の収穫(しゅうかく)量にばらつきがあるため、政府の財政は不安定でした。
そこで、米ではなく、土地の値段の3%を税として現金で納めさせたのです。
地租改正により、国の財政は安定していきました。


■ scene 07 徴兵令と士族の不満

さらに政府は、ヨーロッパにならい、強い軍隊をつくるため「徴兵(ちょうへい)令」を出します。
全国民から20歳(さい)以上の健康な男子を集め、3年間軍隊に入ることを義務付けたのです。
国を守る役目は国民全体に広がりました。
一方で、大久保たちの大きな改革に不満を唱えたのが、かつての武士、「士族」でした。
明治時代になり、士族の多くは役割を失い、収入が減ってしまいました。
そして、徴兵令でその存在意義がさらにゆらいでしまったのです。


■ scene 08 明治維新にすべてをささげた人生

1877年、ついに士族が九州で反乱を起こします。
リーダーは、かつて大久保と倒幕(とうばく)運動をともにした、あの西郷隆盛でした。
しかし、大久保が送った政府軍に破れ、西郷は自害して果てます。
強い明治の世をつくるために心を鬼(おに)にした大久保。
西郷の死を知り、悲しみにくれました。
そんな思いを知ることなく、一部の士族は改革を推し進めた大久保へのうらみをつのらせていきました。
1878(明治11)年5月。
士族におそわれ、大久保は命を落とします。
新しい日本をつくる。
明治維新にすべてをささげた49年の人生でした。


第27回 大塩平八郎~庶民の反乱~

第27回 大塩平八郎~庶民の反乱~

■ scene 01 “大阪に大塩あり”

大塩平八郎は、大阪の奉行所(ぶぎょうしょ)で働く、「与力(よりき)」という江戸幕府の役人でした。
十手を持って大阪の町を東へ西へかけめぐり、さまざまな事件を解決。
“大阪に大塩あり”と、その名を全国にとどろかせました。
しかし、大阪の町の役人には不正と腐敗(ふはい)がうずまいていました。
大塩は正義の与力として、敢然(かんぜん)と悪に立ち向かうのでした。


■ scene 02 大阪町奉行所の与力

大塩平八郎は、江戸時代の終わりごろ、飢饉(ききん)のために苦しむ庶民(しょみん)のために立ち上がった人物です。
大塩は、大阪の町奉行所(ぶぎょうしょ)で働く「与力」という役人でした。
日々、大阪の町を見回り、犯罪捜査(そうさ)や犯人逮捕(たいほ)にあたっていました。
当時、経済の一大中心地であった大阪には、米や魚などさまざまな品物が集まり、多くの商人が活躍(かつやく)していました。


■ scene 03 不正をにくむ正義漢

そのかげで、江戸幕府の役人は商人から賄賂(わいろ)を受け取り、たがいの癒着(ゆちゃく)が深まるなど、不正や腐敗(ふはい)が進んでいました。
大塩にもたびたび賄賂がおくられました。
しかし大塩は決して賄賂を受け取ることはなく、同僚(どうりょう)の与力たちに、「不正を許しているから、取り調べが進まないのだ!」と強くうったえました。
大塩は、不正をにくむ正義漢でした。
その後も、大塩は清廉潔白(せいれんけっぱく)な与力として数々の事件を解決し、汚職(おしょく)を摘発(てきはつ)するなど大活躍(かつやく)。
やがて、『大阪に大塩あり』とまでいわれるようになりました。


■ scene 04 私塾で陽明学を教える

さらに大塩は、幕府の高官がからむ大規模な汚職(おしょく)事件の捜査(そうさ)に乗り出します。
しかし、幕府の判断で3人の役人が処罰(しょばつ)されただけで、事件はうやむやになります。
与力の仕事に限界を感じた大塩は38歳(さい)で辞職。
その後、自ら開いた塾(じゅく)で、中国の明(みん)の時代におこった陽明学(ようめいがく)の研究と弟子の教育に専念しました。
大塩が特に大切にしていた陽明学の言葉があります。
「知行合一(ちこうごういつ)」。
知識は行動をともなってこそ意味がある、本当の知識は実践(じっせん)をともなわなければならない、という意味です。


■ scene 05 ドキリ★庶民のために乱を起こした

1833年、天保(てんぽう)の大飢饉(だいききん)が起こります。
全国の村や町は、飢(う)えに苦しむ人であふれました。
しかし、幕府の役人や商人たちは、飢饉には目もくれず、あいかわらず私利私欲に走っていました。
世の不正を知った以上、行動を起こさねばならない。
大塩はついに決起します。
1837年(天保8年)2月19日、大塩は仲間の与力や弟子たちとともに、不正を行う役人や商人を討つための戦いを起こします。
幕府の不正をにくみ、庶民(しょみん)を救うために、大塩はあえて激しい行動にうって出たのです。


■ scene 06 老中あての密書

大塩の乱は、結局、幕府側の軍勢によってその日のうちに鎮圧(ちんあつ)されました。
しかし大塩は、武力だけではなく言葉の力でも政治の改革をうったえようとしました。
乱を起こす二日前、幕府の老中あてに密書を送っていたのです。
その内容は、下級役人から老中までもが関わる不正をうったえるものでした。
これが明るみに出れば、事件に関与(かんよ)した人物は一掃(いっそう)され、少しでも清く正しい政治が行われるようになるのではないか。
密書は大塩が幕府につきつけた内部告発であり、腐敗(ふはい)を正す最後の希望だったのです。


■ scene 07 ドキリ★江戸幕府の支配体制が大きくゆらいだ

ところが、この密書は老中の手に届くことはなく、大塩の望みは絶たれます。
逃亡(とうぼう)から40日。
ついに居場所をつきとめられた大塩は、持っていた爆薬(ばくやく)で壮烈(そうれつ)な最期をとげたといわれています。
大塩の乱は幕を閉じましたが、その後、大塩の遺志をつぎ、世直しを求める「打ちこわし」や「一揆(いっき)」が全国各地で起こります。
江戸幕府の腐敗(ふはい)した政治に対する不満が高まり、やがて、幕府をたおそうという運動が高まっていくのです。

第28回 ペリー~揺らぐ江戸幕府~

第28回 ペリー~揺らぐ江戸幕府~

■ scene 01 江戸幕府にせまったアメリカ海軍司令官

アメリカ海軍の司令官マシュー・ペリーは、鎖国(さこく)をしていた日本に国を開かせるためにやってきました。
自分の言うことを聞かないとアメリカ軍のほこる黒船で日本をせめることになるかもしれない、となかばおどしたのです。
日本の人々は異国から来たペリーをどのように見ていたのでしょう。
ペリーの似顔絵をかいた当時の瓦版(かわらばん)を見ると、どれも天狗(てんぐ)のような顔をしています。
ペリーはどのようにして江戸幕府に国を開かせたのでしょうか。


■ scene 02 日本を開国させる

およそ160年前、マシュー・ペリーは、日本に開国をせまるため、アメリカからやってきました。
そのころ、アメリカは清(今の中国)との貿易を考えていました。
しかし中国へは、大西洋を横断し、アフリカの南を回って4か月くらいかかりました。
太平洋を横切れれば20日程度で中国に着きます。
そこで注目されたのが、燃料や水、食料の補給基地としての日本でした。
しかし、当時の日本は鎖国(さこく)をしていました。
アメリカの船は日本に近づくことができません。
「日本を開国させる」。
大統領から交渉(こうしょう)を任されたのが、海軍司令官のマシュー・ペリーでした。


■ scene 03 アメリカ大統領の手紙を幕府に

1853年、ペリーは4隻(せき)の巨大な軍艦(ぐんかん)を率い、江戸湾(わん)の入り口、今の神奈川県の浦賀にやってきました。
ペリーはときおり軍艦の空砲(くうほう)を放ち、幕府に圧力をかけます。
アメリカと戦争になるのではないかと、江戸は大さわぎになりました。
幕府はまず、浦賀奉行所の役人を派遣します。
しかしペリーは、大統領の手紙を直接、幕府の高官に手わたすことを要求しました。
その強い態度におされ、幕府は上陸の許可をあたえます。
大統領の手紙を幕府の責任者にわたすことに成功したペリーは、1年後に要求の答えを受け取る約束をして、日本を立ち去りました。

■ scene 04 ドキリ★ペリーによって幕府は国を開いた

翌年、再びペリーが来日。
今度は9隻(せき)の艦隊(かんたい)を率いています。
ペリーは、日本に改めて要求をつきつけます。
港を開き、船の燃料を補給できるようにすること。
乗組員を保護し、水や食料をあたえること。
話し合いは1か月半におよびました。
1854年、ペリーは、今の神奈川県の横浜に上陸。
日本は外国と初めて条約を結びます。
「日米和親条約」です。
この中で、幕府は下田と箱館(今の函館)の二つの港を開き、燃料や食料、水を提供することを約束しました。


■ scene 05 不平等な条約

4年後の1858年、幕府はアメリカと「日米修好通商条約」を結び、貿易を始めます。
アメリカに次いで、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも通商条約を結びます。
しかしどれも日本にとって不利な内容でした。
その一つが、「治外法権(ちがいほうけん)」。
 日本で外国人が罪を犯しても、日本の法律で裁くことができません。
もう一つは、「関税自主権がない」こと。
輸入される品物にかける関税の税率を、日本が決めることができません。
そのため、外国から安い綿製品や糸が輸入され、生産地は大打撃(だいだげき)を受けます。


■ scene 06 ドキリ★開国により幕府の力は弱まった

その一方で、生糸やお茶が外国にどんどん輸出され、品不足になりました。
さらに、米や塩などの生活必需(ひつじゅ)品も値が上がったため、人々の生活は苦しくなり、幕府への不満が高まりました。
そんな幕府に代わり、新しく天皇中心の国をつくろうと、各地で倒幕(とうばく)運動が起こります。
開国により、国内は混乱し、幕府の力は弱まりました。

第24回 歌川広重~江戸時代のアート・浮世絵~

第24回 歌川広重~江戸時代のアート・浮世絵~

■ scene 01 大人気シリーズ『東海道五十三次』

江戸時代の終わりごろの浮世絵(うきよえ)師、歌川広重。
広重のかいた『東海道五十三次』は、人々のあいだで大人気のシリーズになりました。
たとえば、箱根の急な山、ふもとに広がる芦ノ湖(あしのこ)の雄大(ゆうだい)な風景。
今の絵葉書のようなもので、『東海道五十三次』は人気を集めました。
広重以外にも浮世絵師がたくさんいました。
役者絵や力士絵など、今で言うアイドルのポスターや、野球・サッカー選手のカードのような人気でした。
そして浮世絵は、日本だけでなく海外の芸術にも大きな影響(えいきょう)をあたえました。



■ scene 02 浮世絵は庶民の手軽な楽しみ

歌川広重は、およそ200年前に活躍(かつやく)した浮世絵師です。
広重のかいた『東海道五十三次』は、江戸時代、旅好きの人々のあいだで大人気となりました。
浮世絵は値段が安く、庶民(しょみん)が簡単に手に入れることができました。
安くできた理由は、同じものをたくさん作ることができたからです。



■ scene 03 浮世絵のできるまで

浮世絵のできるまでを説明しましょう。
まず、浮世絵師が墨(すみ)で絵をかき、どこにどんな色を着けるか決めます。
次に、彫(ほ)り師が絵を板にはり、輪郭(りんかく)だけを残して彫ります。
色の部分は別の板に彫ります。
緑や赤など、ぬり色ごとに板を分けます。
最後に、すり師が、色ごとに分けて何度もすっていきます。
ずれないようにするのが、技でした。
武士や貴族のためにえがかれたそれまでの高価な絵とはちがい、浮世絵は大量に作られたため、安く売ることができたのです。



■ scene 04 役者絵、美人画、相撲絵

では、どんな浮世絵があったのか見てみましょう。
江戸時代は、平和が続き、町人たちの生活は豊かになりました。
そんな町人たちの好むものが、浮世絵でえがかれました。
なかでも人気の高かったのが歌舞伎(かぶき)です。
役者をかいた浮世絵は飛ぶように売れました。
ほかにも、美しい女性をかいた「美人画」や、庶民(しょみん)の好きな相撲(すもう)も浮世絵になりました。



■ scene 05 ドキリ★『東海道五十三次』で人気絵師に

当時、ヒット作がなかった広重は考えます。
庶民(しょみん)に何がウケるのか。
そのころ人々の楽しみとして、お寺や神社にお参りする旅がはやりました。
東海道の旅は特に人気でした。
そこで広重は東海道の風景をかくことにしたのです。
今の静岡県沼津(ぬまづ)をえがいた風景。
夕暮れどき、旅を急ぐ人たちを大きな満月が見守っています。
とつぜんの雨であわてて走り出す人たちがえがかれているのは、今の三重県の庄野(しょうの)の風景。
旅人の様子を生き生きとえがきました。
歌川広重は『東海道五十三次』で人気絵師となりました。



■ scene 06 才能あふれる『名所江戸百景』

『東海道五十三次』で人気絵師となった広重は、『名所江戸百景』というシリーズでその地位を不動のものにします。このシリーズは、広重の芸術的才能を遺憾(いかん)なく発揮したものとして有名です。江戸の町から見た富士山。手前に大きなこいのぼりをえがき、町のおくゆきを表現しています。軒先(のきさき)にカメをつるした絵では、カメの向こう側に富士が見えます。江戸の町から見える富士の姿を、大胆(だいたん)な構図で表現しました。



■ scene 07 ドキリ★ヨーロッパの画家にも影響をあたえた

江戸の町人のためにかいた広重の浮世絵は、海をこえ、時代をこえて、ヨーロッパの画家たちにも大きな影響(えいきょう)をあたえました。その一人が、オランダの画家ゴッホ。広重がかいた『名所江戸百景』のなかの一つを、ゴッホがそっくりにかいています。ゴッホは、広重の浮世絵の技法を学び取ろうとしたのです。そして、フランスの画家モネ。モネの名作『睡蓮(すいれん)の池』。池にかかる丸い橋は、広重の絵がモデルです。

第25回 杉田玄白・本居宣長~江戸時代の学問と教育~

第25回 杉田玄白・本居宣長~江戸時代の学問と教育~

■ scene 01 『ターヘル・アナトミア』の翻訳

医者であり蘭学者(らんがくしゃ)でもあった杉田玄白は、仲間といっしょにオランダ語の解剖(かいぼう)書を翻訳(ほんやく)して『解体新書』を作りました。
その解剖書『ターヘル・アナトミア』という本には、人間の体の中の内臓や筋肉、骨格などがくわしくえがかれていて、玄白たちはおどろきました。
医者である玄白も、それまで体の中を見たことがなかったのです。
そうやって始めた翻訳は大変な作業でした。
辞書などなかったからです。
玄白たちはどのように翻訳を進めたのでしょうか。


■ scene 02 解剖書『解体新書』の発行

今からおよそ240年前、杉田玄白は、人の体の解剖(かいぼう)書『解体新書』を発行しました。
そのもととなったのが、オランダ語で書かれた『ターヘル・アナトミア』という解剖書です。
この本は、オランダ人が長崎の出島に持ちこんだものです。
当時は出島を通して、ヨーロッパの進んだ知識や文化が入ってきました。
江戸で医者をしていた玄白が『ターヘル・アナトミア』を手にしたのは、39歳(さい)のときです。
中にえがかれている骨格や筋肉、内臓の図は、今までに学んだものとはちがっていました。


■ scene 03 西洋医学の正確さにおどろく

ある日、処刑(しょけい)された囚人(しゅうじん)の解剖(かいぼう)に立ち会う機会を得た玄白は、『ターヘル・アナトミア』にかかれている解剖図の正確さにおどろきました。
玄白はこのときの気持ちを書きのこしています。
「基本的な人の体の中も知らずに医者をしていたとは…、面目もなき次第…」。
当時の医者は、主に患者(かんじゃ)の様子を外から見て病気を判断し、薬を使って治していました。
そのため、体の中がどうなっているかという知識はあまりありませんでした。


■ scene 04 困難をきわめた翻訳作業

玄白は仲間たちと『ターヘル・アナトミア』の翻訳(ほんやく)を開始します。
しかし辞書もなくオランダ語がわからないため、作業は困難をきわめました。
玄白は語ります。
「鼻は顔の中でフルヘッヘンドしたもの」という文章がありました。
しかしその「フルヘッヘンド」がわかりません。
ある本には、「木の枝を切り取るとそのあとがフルヘッヘンドとなる」、また「庭をそうじするとごみが集まりフルヘッヘンドする」とあります。
考え続けた玄白がふと思いつきます。
それは「うず高くなる」ということではないのか。
「鼻は顔の中でうず高くなっているもの」と、ようやく訳すことができたのです。


■ scene 05 ドキリ★『解体新書』の出版で蘭学が発達した

このような苦労を重ねて4年。
日本語に訳された『解体新書』が完成しました。
この本の出版で日本の医学は大きく前進することになります。
またオランダ語の翻訳(ほんやく)技術が進み、医学以外の学問も盛んになります。
このような西洋の学問を「蘭学(らんがく)」と呼びました。
『解体新書』の出版をきっかけに蘭学を学ぶ人が増え、発達します。
またこの時代には、農民や町人の子どもたちが学ぶ「寺子屋(てらこや)」ができました。
武士や医者などが先生となって読み書きやそろばんを教える寺子屋は、子どもたちの学問の場として全国に広がりました。


■ scene 06 日本古来の考え方を研究する国学

江戸時代の中ごろ、西洋から学ぶ蘭学(らんがく)とは別に、日本の古典を研究する「国学(こくがく)」も発達します。
本居宣長は、『古事記』や『源氏物語』の研究をした国学者です。
日本人は長いあいだ、中国や朝鮮、西洋の国々から、仏教やキリスト教、儒教(じゅきょう)などの影響(えいきょう)を受けてきました。
外国からの影響を受ける前にもどれば、日本古来の考え方がわかるのではないかと宣長は考えました。


■ scene 07 ドキリ★江戸時代中期に国学が発達した

宣長が注目したのが『古事記』。
日本をつくったとされる神々の物語が書かれたものです。
宣長の使った古事記には、たくさんの書きこみがあります。
宣長は、そこに書かれているひと文字ひと文字をていねいに読み解きながら、日本古来の考え方をさぐったのです。
そして、35年かけて完成させたのが、『古事記』の解説書、『古事記伝』です。
日本古来の考え方を追求した国学は、のちに、天皇を中心とした国づくりをめざす人たちに影響(えいきょう)をあたえました。

第26回 伊能忠敬~蘭学の発展~

第26回 伊能忠敬~蘭学の発展~

■ scene 01 正確な地図を作るために

伊能忠敬は、江戸時代、50歳(さい)をこえた体で日本全国を歩きまわり、地図を作る旅を続けました。
忠敬が旅に出る前の、江戸時代の地図を見ると、たとえば北海道が不思議な形にえがかれています。
当時、正確な地図がなかったのです。
忠敬は正確な地図を作るために、風の日も、雪の日も、ひたすら歩き続けました…。


■ scene 02 50歳で天文学を学ぶ

伊能忠敬は、江戸時代の後半、精密な日本地図を作った人物です。
今から200年ほど前、鎖国(さこく)が続く日本に新しい学問が流行します。
幕府に貿易を許されていたオランダからもたらされた「蘭学(らんがく)」です。
当時の千葉県で商人をしていた忠敬は、なかでも天文学に興味をいだきました。
50歳(さい)のとき、忠敬は決心します。
家業を息子にゆずり、江戸で天文学を学ぶことにしたのです。
忠敬は、江戸で幕府の天文学者・高橋至時(よしとき)に弟子入りします。
熱心に勉強する忠敬の姿に心打たれた至時。
忠敬を尊敬し、ともに研究に明け暮れました。


■ scene 03 地球の大きさを知りたい

忠敬には壮大(そうだい)な夢がありました。
地球の大きさを知ることです。
そこで、日本のさまざまな場所で北極星を観測し、見える角度の差と距離(きょり)から、地球の大きさを計算しようと考えたのです。
そのためには、江戸から、今の北海道である蝦夷地(えぞち)までの広い範囲(はんい)で北極星を観測する必要がありました。
忠敬は、幕府がほしがっていた「蝦夷地の正確な地図」を作ることを名目に、測量の旅の許可をもらいます。


■ scene 04 一歩一歩歩いて測量

1800年、55歳(さい)の忠敬率いる測量隊が江戸を出発。
長い地図作りの旅の幕開けでした。
測量には、田畑を測るのに使われていた方法を用いました。
「梵天(ぼんてん)」という目印を立て、そのあいだの距離(きょり)を、一歩一歩歩いて測ります。
そして方位磁石を細かく使って、正確な方位を導いていきます。
歩くことができないけわしい海岸は、船から海になわをわたして測量し、緻密(ちみつ)な線をえがきました。
旅の合間に北極星の観測も続け、地球の外周をおよそ4万kmと導き出しました。
忠敬の夢がかなったのです。
1800年、55歳(さい)の忠敬率いる測量隊が江戸を出発。
長い地図作りの旅の幕開けでした。
測量には、田畑を測るのに使われていた方法を用いました。
「梵天(ぼんてん)」という目印を立て、そのあいだの距離(きょり)を、一歩一歩歩いて測ります。
そして方位磁石を細かく使って、正確な方位を導いていきます。
歩くことができないけわしい海岸は、船から海になわをわたして測量し、緻密(ちみつ)な線をえがきました。
旅の合間に北極星の観測も続け、地球の外周をおよそ4万kmと導き出しました。
忠敬の夢がかなったのです。


■ scene 05 ドキリ★全国を歩いて地図作りに取り組んだ

忠敬が自らの足で作り上げた、江戸から蝦夷地(えぞち)までの地図。
その精密さにおどろいた将軍・徳川家斉(いえなり)は、今度は全国の地図を作るよう命じます。
忠敬の地図作りの旅が再び始まったのです。

■ scene 06 17年にもわたった測量の旅

幕府の命令で大規模になった地図作り。
人手も増え、より精密に測量できるようになります。
忠敬の測量の旅は17年にもわたりました。
老いた体で旅を続けた忠敬。
ほおはこけ、歯はぬけ落ちていたといいます。
それでも歩みを止めませんでした。
娘(むすめ)への手紙にその気持ちが書かれています。
「今までだれもやったことのない地図作りに取り組み、諸国をめぐる。ありがたいことだ」。
1818年、地図の完成を目前に、忠敬は73歳(さい)で亡くなります。
仲間たちは忠敬の思いを果たそうと、地図の完成を急ぎます。


■ scene 07 ドキリ★現在の日本地図の基礎となった

1821年。
ついに日本列島の地図『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』が完成します。
歩いて測量した、日本で初めての本格的な地図です。
歩いた道のり、およそ4万km。
くしくも、地球一周と同じ距離(きょり)でした。
この地図は、私たちが今日使っている日本地図の基礎(きそ)となっています。

第22回 徳川家光~江戸幕府と大名~

第22回 徳川家光~江戸幕府と大名~

■ 江戸幕府をもっと強くしたい!

全国の大名たちが幕府に刃(は)向かっていないかチェックを続ける徳川家光。
そんな家光の秘密兵器が「武家諸法度(ぶけしょはっと)」です。
武家諸法度は、大名がしてはいけないこと、しなければならないことを書いた法律のようなものです。

大名は1年おきに江戸に来て将軍のために働かなければいけない。
新しい城を築いてはいけない。
勝手に結婚(けっこん)してはいけない…。
なぜそこまで細かく定めるかというと、祖父である初代将軍の家康がつくった江戸幕府を、もっともっと強くしていくためでした。



■ 少年時代のピンチを救ったのは…

徳川家光は、江戸幕府の力を固めた三代将軍です。
幼いころの名は、竹千代。
そのころ両親は、竹千代よりも弟の国松に愛情を注いでいました。
「国松を世つぎに」、そんな空気が流れ始めたといいます。
竹千代のピンチを救ったのが、江戸幕府を開いた祖父・徳川家康です。
孫たちに会いに来たときのこと。
家康は、「竹千代どの、こちらへ来なさい」と竹千代をていねいな言葉でよび寄せます。
しかし国松には、「おまえはそこにいろ」と一喝(いっかつ)。
みんなの前で竹千代を優先的にあつかうことで、将軍の座を約束したのです。



■ 「私は生まれながらの将軍である」

こうして家光は、20歳で三代将軍に就任。
祖父・家康が開いた幕府の力をさらに高めようと、大名たちにこう宣言します。
「私は生まれながらの将軍である。祖父や父の仲間だった大名もすべて家来としてあつかう」。
全国の大名をおさえる手段の一つが、武家諸法度。
父・秀忠の代につくられた、大名などを取りしまる法律です。
そこに家光は新たな項目(こうもく)を加えました。
参勤交代(さんきんこうたい)」です。
大名が1年おきに自分の領地と江戸を行き来し、将軍のために働くというもの。
領地に帰るときは、妻や子を人質として江戸に残す決まりでした。



■ ★参勤交代などで大名をおさえつけた

加賀金沢藩(はん)の参勤交代の様子をえがいた絵があります。
およそ2000人もの大行列
金沢から江戸まではおよそ480km、2週間の旅でした。
武器や衣装、食事代など、行列にはばくだいなお金がかかりました。
この藩では、宿泊(しゅくはく)費だけでも現在の2億円を使ったといいます。
すべては大名たちの自己負担
大名はお金を使い、謀反(むほん)どころではありません。
それこそが家光のねらいだったのです。
参勤交代などのしくみで大名をおさえつけた家光は、全国の支配を固めていきました。



■ 大きなピンチ「島原の乱」

大名をおさえることに成功した家光に、大きなピンチが訪れます。
1637年の「島原の乱」です。
当時、キリスト教の弾圧(だんあつ)と重い税の取り立てに苦しんでいた農民たちが、天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)をリーダーに、反乱を起こしたのです。
幕府は12万もの兵をつぎこみ、ようやく鎮圧(ちんあつ)しました。



■ ★キリスト教の禁止、貿易の独占

農民の団結力を思い知り、おそれた家光は、キリスト教の取りしまりをさらに厳しくします。
そして、キリスト教を広めるおそれの少ないオランダと中国だけを相手に長崎の出島で貿易をし、その利益は幕府が独占(どくせん)しました。
キリスト教の禁止。
貿易の独占。
海外との交流の禁止
国をとざしたこのような一連の政策を「鎖国(さこく)」といいます。
鎖国により、幕府の支配力と財力は安定していきました。



■ 祖父・家康が心の支え

栃木県の日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)には、家光の祖父・家康がまつられています。
当初は質素な建物でしたが、家光がきらびやかにつくり変えました。
幼いころ家光を将軍に推してくれた祖父への感謝の思いが表れています。
家光がなやんでいるとき、家康がたびたび夢に現れ、見守ってくれたといいます。
家光はその様子を絵に残し、心の支えにしました。
祖父・家康がつくり、家光が固めた江戸幕府は、およそ260年続き、今の東京へと受けつがれていきます。

第23回 近松門左衛門~江戸時代の文化~

第23回 近松門左衛門~江戸時代の文化~


■ scene 01 人形浄瑠璃の脚本家

武士から町人に身分を変え、夢だった脚本家(きゃくほんか)に転身した近松門左衛門。何の脚本かというと、人形浄瑠璃(じょうるり)といって、美しい人形が織り成す物語です。歴史上の人物などを主人公にした「時代物」のほか、実際に起きた事件などを題材に、町人の生き様や思いがぎゅっとつまった物語を、近松は手がけていくことになります。



■ scene 02 “天下の台所”大阪

近松門左衛門は江戸時代に活躍(かつやく)した劇作家です。今から350年ほど前、徳川幕府のもと、戦のない平和な世が続いていました。物の流通が盛んになり、特に栄えたのが江戸と大阪です。“天下の台所”とよばれた大阪では、全国から集められた米や特産物が取り引きされました。経済的に豊かになった町の人々は思い思いの娯楽(ごらく)を楽しむようになります。特に人気を集めたのが人形浄瑠璃です。三味線と語りによる日本固有の人形劇で、歴史上の物語が多く上演されました。夢中で見る人々のなかに近松がいました。当時の身分は武士でした。



■ scene 03 曽根崎で起きた心中事件

すっかり心をうばわれた近松。人形浄瑠璃の作家になる決意をし、武士の身分を捨てて転身します。
そして、あだ討ち劇などの「時代物」を多く手がけていきました。
そんな近松に大きな転機が訪れたのは51歳(さい)のとき。
大阪の曽根崎(そねざき)で恋人(こいびと)同士の男女が自ら命を絶つ心中(しんじゅう)事件が起こったのです。
町は事件の話題で持ちきり。
近松は亡くなった二人に強く心を動かされ、事件をもとに脚本(きゃくほん)を書くことにしました。
二人の思いに寄りそいながら脚色を加え、より深い人間ドラマに仕上げました。
事件から3週間で書き上げた作品、『曽根崎心中』です。



■ scene 04 ドキリ★町人が主役の作品を多く手がけた

醤油(しょうゆ)店につとめる徳兵衛(とくべえ)と、恋人(こいびと)のお初。
二人は、たがいに別の人といっしょになる定めでした。
徳兵衛は友人にたのみこまれ、店のお金を貸します。
しかしそれをふみたおされ、ぬすみの罪まで着せられてしまいます。
ぬれぎぬは晴れず、いっしょにもなれない。傷つき追いつめられた二人は、死を選ぶのです。
歴史上の人物ではなくふつうの町人が主役という、前代未聞(ぜんだいみもん)の『曽根崎心中』は大ヒット。
近松はこのあとも、町の人をえがいた作品を次々と発表します。



■ scene 05 花開く才能

100本以上の人形浄瑠璃を書いた近松。
その作品は歌舞伎(かぶき)でも上演されました。
300年がたった今も、大切に演じつがれています。
人形浄瑠璃、そして歌舞伎。
近松の才能は、町人文化の発展とともに花開きました。



■ scene 06 江戸時代の新たなアートの確立

江戸時代、芝居(しばい)の人気とともに、新たなアートが確立します。
「浮世絵(うきよえ)」です。
歌舞伎(かぶき)のスターをえがいた「役者絵」や、人気のあった相撲(すもう)の絵。
ファッションの流行に影響(えいきょう)をあたえた「美人画」も人気でした。



■ scene 07 ドキリ★町人中心の文化が栄えた

浮世絵ブームで印刷技術が発達し、本の出版も盛んになります。
井原西鶴(いはら・さいかく)は、町人の生活をもとに、「浮世草子(うきよぞうし)」とよばれる小説を書きました。
松尾芭蕉(まつお・ばしょう)がよんだ俳諧(はいかい)の句集も人気をよびました。
町人文化が最もはなやかだった元禄(げんろく)時代に活躍(かつやく)した松尾芭蕉、井原西鶴、そして近松門左衛門は、“元禄の三大作家”と称(しょう)されました。
近松が生きた江戸時代、町人が主役の文化が栄えた時代でした。

第20回 豊臣秀吉~武士が支配する世へ~

第20回 豊臣秀吉~武士が支配する世へ~

■ 信長のあとを引きついで

今からおよそ430年前、豊臣秀吉は、亡き主君、織田信長のあとをつぎ、天下統一を進めました。

1582年、信長が家臣の明智光秀にそむかれ、京都の本能寺で亡くなります。

知らせを聞いた秀吉は、中国地方での戦いを直ちにやめ、京都にもどります。

そして、明智光秀を打ち破りました

この手柄により、秀吉は大勢の家臣たちをおさえ、信長のあとを引きつぎます。



■ 関白の地位を利用して大名を従わせた

秀吉は、天下統一のための城として、大阪城を築きます。

そして四国地方をせめ、支配地域を広げます。

勢いのとまらない秀吉は、天皇の政治をたすける「関白」という高い地位までも手に入れます。

その高い地位を利用して、各地の大名たちに自分に従うよう命令を出し、抵抗するものには武力を使いました。

そのようにして大名たちをおさえ、西日本全域を支配したのです。

秀吉は、関白という地位を利用して、各地の大名を従わせました。



■ 天下統一のためには

天下統一には、大名をおさえるだけでなく、農民たちを支配することも必要だと考えます。

そこで行ったのが「太閤検地(たいこうけんち)」です。

全国の田畑の面積をくわしく測り、どれだけ作物がとれるのかを調べたのです。

「検地帳」には田畑の面積が記入され、耕作する農民の名前が書かれていました。

どの農民が、どれだけの土地を持っているかが明らかにされ、農民たちは決められた年貢を納める責任を負い、勝手に土地をはなれられなくなりました。



■ 農民を支配するしくみを作った

さらに秀吉は、農村に「刀狩(かたながり)令」を出します。それは、農民が刀ややりなどの武器を持つことを禁止するものでした。武器を没収し、一揆を防ぐためです。

そして取り上げた武器は、新しい大仏を作るための釘などにするとされていました。

仏のめぐみを受けられる、と農民自ら武器を差し出すようにしたのです。

検地や刀狩を行い、武士が農民を支配するしくみを作りました。

このように秀吉は、強大な権力で大名を従わせ、検地と刀狩で農民を支配することで、天下統一を進めたのです。



■ 天下統一、そして…

1590年、秀吉は関東で力を持ち抵抗していた北条氏を打ち破り、とうとう天下統一を成しとげます。

国内の支配を確かなものにした秀吉は、さらに大きな野望を持ちます。

当時の中国、明(みん)の征服です。

そのため朝鮮半島に二度にわたり大軍送ります。

しかし朝鮮の人々は明の援軍とともに激しく抵抗しました。

1598年、秀吉が病で亡くなります。

戦いに苦しんでいた大名たちは日本に兵を引き上げました。

その死後、豊臣家の力はおとろえていき、最後には徳川家康によってほろぼされてしまいました。

第21回 徳川家康~戦国から江戸へ~

第21回 徳川家康~戦国から江戸へ~

■ 関ヶ原の戦いを制し江戸幕府を開いた

ときは、西暦1600年。
今の岐阜県関ヶ原。
天下をめぐって、徳川家康と石田三成が激突
家康の東軍7万に対し、三成の西軍は8万。
家康側がおされ気味になったとき、事態は動きます。
小早川秀秋率いる1万5000の軍が、とつぜん、三成を裏切り、家康の味方になったのです。
形勢は一気に逆転。
家康の大勝利に終わります。家康は、征夷大将軍の座をつかみ取ります。
そして、自分の本拠地である江戸に幕府を開くのです。



■ 子どものころから重ねた苦労

大勝利の秘密は、家康の手紙。
「自分に味方してくれたら領地を保証する」と、大名たちに根回しをして、有利な状況になるのを待ったのです。

家康は子どものころから苦労を重ねていました。
今の愛知県、三河の国の小さな大名の家に生まれた家康は、人質として有力な大名のもとを転々としました。
いつ殺されてもおかしくない身の上として13年を過ごします。

そして今川義元の人質となっていたとき、桶狭間(おけはざま)の戦いで義元が織田信長に討ち取られ、家康は自由の身に。
戦国大名として頭角を現していきます。



■ “待つ”家康

戦国時代、天下にいちばん先に近づいたのは、織田信長。
そのあとに豊臣秀吉が続きました。
しかし天下統一を急いだ信長は、明智光秀に裏切られ、殺されました。

秀吉は、天下を治めたあと、中国の征服を考え、朝鮮に兵を送り失敗。
病で亡くなります。

2人の人生を目の当たりにした家康。
ならば自分は、慎重にチャンスを待とう。
そう考えるようになっていきました。



■ 心配のたねは豊臣秀頼

しかし、大きな心配のたねがありました。
それは、秀吉の息子、豊臣秀頼
西日本の大名たちへの影響力を持ち、無視できない存在でした。

豊臣家を完全にほろぼし、徳川の世にしたい家康。
秀頼をせめるきっかけが必要でした。

再び待つこと14年
ようやくそのときが訪れます。



■ 74歳でついに天下を

家康が目をつけたのは、秀頼が新しくつくった鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」の文字。
「家康の名前を切りはなし、豊臣が楽しむ、とある。家康をのろっている」と言いがかりをつけたのです。

そして豊臣家を二度にわたってせめほろぼすと、ついに家康に刃向かう勢力はなくなりました。
このとき家康、74歳

あせらず待つことで敵をほろぼし、このあと260年続く江戸時代の土台を築いたのです。



■ 土地を開発し元気な町をつくる

実は家康は、もともと望んで江戸に来たわけではありません。
秀吉の天下の時代に、領地としてあたえられたのです。

しかし、そこは広いだけのじめじめした土地でした。
がっかりする家臣たちを前に、家康はこれをチャンスととらえます。
大々的に開発し、元気な町をつくろうと考えたのです。



■ 江戸を開発し大都市へと変身させた

江戸時代の初め、今の東京の一部は海でした。
そこで家康は海をうめたて、土地を増やしました

新しい土地に家臣や民を呼び寄せ、町づくりを始めると、一気に江戸は活気づきました。

家康が特に力を入れたのが、運河を開くことです。
全国からの船が行き交い、物の流通が盛んになると、江戸はさらに発展しました。

じめじめした土地から日本有数の大都市へ
人口はどんどん増え、やがて、100万人が暮らす世界的な大都市に成長。
今の東京につながっていきました。

第18回 ザビエル~キリスト教の伝来~

第18回 ザビエル~キリスト教の伝来~

■ 日本人アンジローとの出会い

フランシスコ・ザビエルは、およそ500年前、日本に初めてキリスト教を伝えました。
スペインの貴族の家に生まれたザビエルは、キリスト教を世界中に広める宣教師となります。
船でアジアに向かったザビエルは、インドを拠点に布教を始めます。

ザビエルがマレーシアで布教していたときに、キリスト教についてたずねる日本人に出会いました。
名前は、アンジロー。
この青年に興味を持ったザビエルは、日本での布教を決意します。
そして1549年、アンジローのふるさと、鹿児島に上陸しました。



■ 京都へ

さっそく布教を始めたザビエルのまわりには、初めて見る外国人に興味を持った人々が集まりました。
ザビエルはなれない日本語を使い、必死にキリスト教を説きました。
その結果、100人をこえる信者を集めることができたといわれています。

次にザビエルは京都に向かいます。
天皇に布教の許可をもらい、日本全国にキリスト教を広めようと考えたからです。
ところが、京都に着いたザビエルはおどろきます。

京都の町は戦乱で荒れ果てていました。
そのころ日本は戦国時代
各地の大名がたがいに争い、天皇をこえる力を持ち始めていました。



■ 戦国大名に布教の許可をもらう

そこでザビエルは、各地を治める戦国大名に布教の許可をもらうことを考えます。
まず向かったのが、山口です。
ここには西国一の戦国大名、大内義隆(おおうち・よしたか)がいました。

ザビエルは、時計やオルゴール、望遠鏡などをおくり、布教の許可を求めます。
ヨーロッパの品々に大きな興味を持った大内氏は、布教を許しました。
山口でザビエルは、わずかな期間に500人の信者を得ました。

九州の大名、大友宗麟(そうりん)も、キリスト教に大きな関心を持ち、ザビエルの布教を強くあとおししました。



■ 日本に初めてキリスト教を伝えた

しかし、ザビエルはまだ不満を感じていました。
一部の大名が布教を認めても、日本中にキリスト教が広まったわけではないからです。

そこで、ザビエルは中国に行くことを決断します。
中国がキリスト教を認めれば、仏教が日本に伝わったように、キリスト教が広まると考えたからです。

ザビエルは、2年3か月の日本での布教を終え、中国に向かいました。



■ 南蛮船で伝えられた“西洋”

ザビエルが日本をはなれたあとも、多くの宣教師が来日し、キリスト教を広めました。
さらに、南蛮船で、さまざまなヨーロッパの品物が持ちこまれました。

カステラやパン、金平糖(こんぺいとう)などの食品や、コップやボタンといった生活用品、そしてカルタ遊びも、この時代に日本に伝えられました。



■ ヨーロッパの進んだ文化も入ってきた

こうしたヨーロッパの文化に興味を示したのが、天下統一をめざしていた織田信長です。

信長はキリスト教を保護しました。

そして、京都にキリスト教の教会を作ることを許可したのです。
その教えに心を動かされ、キリスト教に改宗する大名も増えます。
かれらは、「キリシタン大名」とよばれました。

ザビエルのまいたキリスト教の種は、日本と西洋が結びつく大きなきっかけとなったのです。
キリスト教が広まるとともに、ヨーロッパの進んだ文化が入ってきました。

第19回 織田信長~天下統一を目指した武将~

第19回 織田信長~天下統一を目指した武将~

■ 天下統一をめざした織田信長

「鳴かぬなら…」と、こわい顔でホトトギスを見つめるのは、戦国大名の織田信長。
夢は、ライバルたちをたおし、天下統一をすることです。
いつ殺されてもおかしくないのが戦国時代。

「でも、弓矢なんて古い古い」と信長が持ち出したのは、鉄砲です。
鉄砲は火薬の力を使って100mくらい弾を飛ばすので、はなれた敵をたおすのにもってこい。

その鉄砲を本格的に戦いで使ったのが織田信長でした。
信長はどのようにして天下統一をめざしたのでしょうか。



■ 下克上の時代

今から450年ほど前、織田信長は天下統一をめざしました。

信長は、今の愛知県尾張の小さな戦国大名の家に生まれました。
父の死により、若くして家をついだ信長は、やがて尾張一国をまとめます。

しかし、信長の生きた戦国時代は、各地で大名たちが争っていました。
身分に関係なく、力あるものがのしあがる、「下克上(げこくじょう)」の時代でした。



■ 天下統一のために欠かせない武器

信長が、天下統一のために欠かせないと考えた武器があります。
それは、当時ポルトガル人によって伝えられた、鉄砲です。

鉄砲には、うつのに時間がかかるという弱点がありました。
まず、銃の先から火薬と弾を入れ、火をつけ、構えます。
一発うったら、次の弾をうつまでに30秒もかかってしまうのです。

しかし信長はその弱点をみごとに克服し、戦で本格的に使いました。
それが、長篠(ながしの)の戦いです。



■ 三千丁の鉄砲

その様子がえがかれた『長篠合戦図屏風(ながしのかっせんずびょうぶ)』。

日本最強といわれた武田騎馬隊との戦いです。
信長軍めがけ、武田の騎馬隊がせめこみます。

待ち受ける織田鉄砲隊。
信長の合図で、「ドドドーン!」と一斉射撃。
信長はこの戦いに備え、三千丁ともいわれる鉄砲を用意しました。

次の弾がうてるまで30秒。
最初の弾をかわした騎馬隊が近づきます。



■ 長篠の戦いで本格的に鉄砲を使った

そのときです。
次の列が前に出て、弾を放ったのです。

弾をこめているあいだに次の列が代わる代わるうつという戦法で、鉄砲の弱点を克服したのです。
信長軍の大勝利でした。

信長は長篠の戦いで本格的に鉄砲を使い、戦の形を変えたのです。
信長が手紙などにおしていた印には「天下布武(ふぶ)」という言葉があります。

「天下に武力を行きわたらせる」という意味。
信長の天下統一に向けての意志の表れです。



■ 楽市楽座で経済を発達させた

琵琶湖のほとりにある安土山(あづちやま)。
長篠の戦いの翌年、信長はここに安土城を築いて天下統一をめざします。

その城下町で信長は、新しい商売の方法を取り入れました。
そこでは商人や職人はだれでも自由に商売をすることができました。

これを「楽市楽座(らくいちらくざ)」といいます。
安土城下町の掟書には、安土が楽市楽座であると記されています。
信長は、だれもが自由に商売できるしくみを取り入れ、経済を発達させました。



■ 新しいもの好きの信長

また、新しいものが好きだった信長は、西洋の文化に大いに興味を持ち、外国と貿易を行いました。
キリスト教の宣教師たちも歓迎しました

ある宣教師が信長のことを書きのこしています。
「信長は、体つきは細く、よく通る声をしていて、戦いを好み、みんなからおそれられていた」と。
そんな信長が天下統一をめざしていた途中のことです。

家臣の明智光秀にそむかれ、命を落としてしまいます。
「本能寺の変」です。
信長の夢は、かないませんでした。

第16回 雪舟・世阿弥~室町の文化と芸能~

第16回 雪舟・世阿弥~室町の文化と芸能~

墨の一色でかかれた絵


雪舟は、今からおよそ500年前の室町時代に活躍した画家です。
僧侶でもありました。
今は絵をかくときにいろいろな絵具を使いますが、雪舟が使ったのは、実は、墨の黒一色です。
雪舟がかいた『秋冬山水図(しゅうとうさんすいず)』。
岩山は力強い線で、遠くの山はうすくぼかして、墨だけでかかれています。
雪舟のかいた絵は現在6点が国宝になっています。


小さいころからの絵の才能

およそ500年前、雪舟は日本独自の水墨画を確立しました。
室町時代の半ばに、雪舟は今の岡山県総社(そうじゃ)市で生まれました。
雪舟が小さなころに修行したといわれるお寺には、雪舟の絵の才能をうかがわせる話が伝わっています。
あるとき、和尚さんにしかられた雪舟は、柱にしばりつけられます。
絵ばかりかいて修行しない雪舟をこらしめるためでした。
様子を見にきた和尚さんはおどろきます。
雪舟の足もとにねずみがいたのです。
それは、こぼれたなみだをなぞって、雪舟が足の指でかいたねずみの絵でした。


墨の一色でかかれた絵

雪舟は、今からおよそ500年前の室町時代に活躍した画家です。
僧侶でもありました。
今は絵をかくときにいろいろな絵具を使いますが、雪舟が使ったのは、実は、墨の黒一色です。
雪舟がかいた『秋冬山水図(しゅうとうさんすいず)』。
岩山は力強い線で、遠くの山はうすくぼかして、墨だけでかかれています。
雪舟のかいた絵は現在6点が国宝になっています。


小さいころからの絵の才能

およそ500年前、雪舟は日本独自の水墨画を確立しました。
室町時代の半ばに、雪舟は今の岡山県総社(そうじゃ)市で生まれました。
雪舟が小さなころに修行したといわれるお寺には、雪舟の絵の才能をうかがわせる話が伝わっています。
あるとき、和尚さんにしかられた雪舟は、柱にしばりつけられます。
絵ばかりかいて修行しない雪舟をこらしめるためでした。
様子を見にきた和尚さんはおどろきます。
雪舟の足もとにねずみがいたのです。
それは、こぼれたなみだをなぞって、雪舟が足の指でかいたねずみの絵でした。


武士に好まれた水墨画

室町時代は、貴族の力がおとろえ、足利氏をはじめとする武士が権力をにぎっていました
しぶいものを好んだ武士たちは、墨の濃淡で表現する水墨画を気に入り、生活の中に取り入れました。
その水墨画を、雪舟は京都のお寺に入って学び始めます。
当時の水墨画の勉強法といえば、本場の中国から入ってきた絵を手本に、その風景を写すことだけでした。
修行を続けるうちに雪舟は、中国で水墨画を学んでみたいと思うようになります。


中国での絵の修行

そんな雪舟にチャンスが訪れます。
遣明船(けんみんせん)で中国にわたることができたのです。
初めて見る中国の雄大な景色に刺激を受けた雪舟は、その風景を熱心にえがきました。
およそ3年の修行で、雪舟の作品は本場中国でも認められるまでになりました。


日本独自の水墨画の世界を確立

修行を終え、帰国した雪舟は、生涯の傑作となる作品に打ちこみます。
『四季山水図巻(しきさんすいずかん)』。
長さ16mにもおよぶ大作です。
日本の自然や四季の変化がえがかれたこの作品は、のちの画家たちの手本となりました。
雪舟は、日本の風景や四季をえがき、独自の水墨画の世界を確立しました。


日本独自の文化

水墨画家として名を成したあとも、雪舟は各地を歩き、生涯にわたって日本の風景をえがき続けました。
名勝地として知られる京都の天橋立もかいています。
雪舟が確立した日本独自の水墨画。

室町時代には、この水墨画のほかにも、日本独自の文化が生まれました。
それは、「能」です。
能は、室町幕府の3代将軍・足利義満の時代に発達しました。
その能を完成させたのが、世阿弥です。


世阿弥によって能は大成された

もともと日本には、田植えのときに豊作をねがって歌いおどった「田楽(でんがく)」や、お祭りで演じられていた「猿楽(さるがく)」などの芸能がありました。
義満の手厚い保護を受けた世阿弥は、それまでの田楽や猿楽をもとに新しい能を作り上げます。
舞台の上で役者は能面をつけ、わずかな動きで人物の感情を表します。
たとえば、顔をやや下に向け、手でおおう仕草は、悲しい気持ちを表しています。
世阿弥の能は将軍義満が武士や貴族をもてなすときにたびたび演じられ、評判をよびました。
500年たった今でも、能は日本の伝統芸能としておどりつがれています。

室町時代は、貴族の力がおとろえ、足利氏をはじめとする武士が権力をにぎっていました。
しぶいものを好んだ武士たちは、墨の濃淡で表現する水墨画を気に入り、生活の中に取り入れました。
その水墨画を、雪舟は京都のお寺に入って学び始めます。当時の水墨画の勉強法といえば、本場の中国から入ってきた絵を手本に、その風景を写すことだけでした。
修行を続けるうちに雪舟は、中国で水墨画を学んでみたいと思うようになります。


中国での絵の修行

そんな雪舟にチャンスが訪れます。
遣明船(けんみんせん)で中国にわたることができたのです。
初めて見る中国の雄大な景色に刺激を受けた雪舟は、その風景を熱心にえがきました。
およそ3年の修行で、雪舟の作品は本場中国でも認められるまでになりました。


日本独自の水墨画の世界を確立

修行を終え、帰国した雪舟は、生涯の傑作となる作品に打ちこみます。
『四季山水図巻(しきさんすいずかん)』。
長さ16mにもおよぶ大作です。
日本の自然や四季の変化がえがかれたこの作品は、のちの画家たちの手本となりました。
雪舟は、日本の風景や四季をえがき、独自の水墨画の世界を確立しました。


日本独自の文化

水墨画家として名を成したあとも、雪舟は各地を歩き、生涯にわたって日本の風景をえがき続けました。
名勝地として知られる京都の天橋立もかいています。
雪舟が確立した日本独自の水墨画。
室町時代には、この水墨画のほかにも、日本独自の文化が生まれました。
それは、「能」です。
能は、室町幕府の3代将軍・足利義満の時代に発達しました。
その能を完成させたのが、世阿弥です。


世阿弥によって能は大成された

もともと日本には、田植えのときに豊作をねがって歌いおどった「田楽(でんがく)」や、お祭りで演じられていた「猿楽(さるがく)」などの芸能がありました。
義満の手厚い保護を受けた世阿弥は、それまでの田楽や猿楽をもとに新しい能を作り上げます。
舞台の上で役者は能面をつけ、わずかな動きで人物の感情を表します。
たとえば、顔をやや下に向け、手でおおう仕草は、悲しい気持ちを表しています。
世阿弥の能は将軍義満が武士や貴族をもてなすときにたびたび演じられ、評判をよびました。
500年たった今でも、能は日本の伝統芸能としておどりつがれています。

第17回 武田信玄・上杉謙信~戦国の争乱~

第17回 武田信玄・上杉謙信~戦国の争乱~

■ 応仁の乱がきっかけとなった戦国時代

武田信玄と上杉謙信は、戦国時代に活躍した戦国大名です。

戦国時代は、室町幕府の将軍・足利義政のあとつぎをめぐって全国の大名が争った「応仁の乱」に始まります。

京の都は焼きつくされ、将軍は力を失います。

一方、地方では、領国を独自に支配する「戦国大名」が登場。
たがいに勢力争いをくりひろげます。

そのなかに、甲斐の武田氏、越後の上杉氏がいました。



■ “甲斐の虎”武田信玄

応仁の乱からおよそ50年後、武田信玄が生まれます。
21歳で武田家の当主になると、家臣の能力を正当に評価することで国内をまとめ、戦国最強といわれる軍隊を育てました。

甲斐や信濃一帯を次々と攻略していく信玄。
その圧倒的な強さから、“甲斐の虎(とら)”とよばれました。



■ “越後の龍”上杉謙信

そんな信玄のライバルが、越後の上杉謙信です。
幼いころから寺で修行し、19歳で当主になります。

電光石火の戦術で野戦に勝ち、生涯ほぼ負け知らず。
織田信長も、謙信の奇襲攻撃に敗れています。

その神がかった強さから、謙信は、“越後の龍”とたたえられました。



■ 信玄と謙信は戦国大名の象徴的存在だった

信玄と謙信がはげしくぶつかった戦があります。

今の北信濃の支配をめぐって起こった「川中島の戦い」です。
5回にわたる戦で特に熾烈をきわめたのが第4回。

信玄は背後から謙信の軍を追い立ててはさみうちにしようと考えます。

しかしそれを見ぬいた謙信。
霧にまぎれて信玄の軍にしのびより、奇襲攻撃をかけます。

大乱戦になったそのとき、一人の武将が信玄の前に飛びこみます。
謙信でした。

ふりおろしたその刀を、信玄は軍配で受け止めます。
この勝負、引き分けに終わりました。

この一騎打ちは伝説ともいわれています。



■ 名将であり名君でもあった

戦いの名人だった信玄と謙信。
領国を治めるうでも確かでした。

信玄の有名な政策の一つが、今ものこる「信玄堤(づつみ)」です。
川に堤防をつくって洪水を防ぎ、年貢の収入を安定させたのです。
金山の開発にも力をいれ、多くの金を手に入れました。

一方、謙信は、「青苧(あおそ)」という植物の栽培を奨励しました。
青苧の糸で織った布製品を全国に売って富を得たのです。



■ 戦国大名は産業を育て領国を強くした

このように戦国大名たちは、戦だけでなく、領国の経営に力を入れました。

城を築き、家臣や商人たちをよび寄せて城下町をつくったほか、「分国法」という領国独自の決まりを定め、武士や領民をとりしまりました。

産業を育て、城下町をつくるなどして国を強くした戦国大名の時代は、およそ140年続きました。

第15回 足利義満・義政~室町文化の発展~

第15回 足利義満・義政~室町文化の発展~

■ 足利義満の力の象徴、金閣

京都、北山で黄金に光りかがやくのが、金閣です。
世界遺産に指定され、年間500万をこえる人が訪れています。
建てたのは、足利義満


■ 貴族、武士、寺の文化を取り入れて

金閣の1階には、戸をつり上げ、部屋に光や風を取りこむための「しとみ戸」があります。
しとみ戸は、貴族の建物で使われていました。

2階には、武士の建物のつくりが見られます。内と外を仕切るのは、「引き戸」です。あつかいやすくて場所をとらない引き戸は、機能重視の武士の家で使われました。

3階。丸みを帯びた窓は、お寺の建物のつくりです。

義満が作った金閣は、貴族、武士、寺、それぞれの文化を取り入れた建物でした。

金閣寺の3つの窓


■ 金閣を中心に華やかな文化が栄えた

義満の力をさらに強くしたのが、当時の中国「明(みん)」との貿易です。
日本からは金をあしらった扇(おうぎ)などの工芸品が輸出され、明からは大量の銅のお金が輸入されました。
莫大な富を手にした義満は、京都北山の地に、金閣のほかにもたくさんの建物を建てます。
そこでは、貴族や武士をもてなすため、が演じられました。
義満が力を入れて育てた能は、現代にも伝わります。
金閣を中心にした華やかな文化が、足利義満の時代に栄えたのです。


■ 足利義政の山荘、銀閣

8代将軍の足利義政は、金閣を作った義満の孫
にあたります。
義政が将軍のとき、有力な武士たちが京都で大きな争いを起こします。
「応仁(おうにん)の乱」です。
争いは10年あまり続きました。
将軍として武士をまとめることができなかった義政は、政治から身を引きます。
そんな義政が京都の東山に山荘として作ったのが、銀閣です。
金閣と同じく世界遺産です。


■ 日本独自の建築様式が完成した

銀閣から少しはなれたところにあるのが東求堂(とうぐどう)
ここには義政の書斎があります。
特徴は、がしきつめられていることです。
また、外との仕切りには障子が立てられました。
かべには、「床の間」の原型となる「付書院(つけしょいん)」と、「ちがい棚」が配置されました。
このような部屋を「書院造(しょいんづくり)」といい、和室のもととして今に受けつがれています。
銀閣が建てられたころ、日本独自の建築様式が完成しました。


■ 生け花や水墨画などの文化が生まれた

書院造の部屋からは、さまざまな文化が生まれます。
たとえば、床(とこ)の間をかざるために発達したのが「生け花」です。
掛け軸(かけじく)」。
墨の濃淡で自然をえがく「水墨画」が、掛け軸に用いられました。
義政の時代に、生け花や水墨画など今に伝わるさまざまな文化が生まれたのです。



第12回 源頼朝~ご恩と奉公~

第12回 源頼朝~ご恩と奉公~

武士の時代を作る

政治をほしいままにしていた平氏を壇ノ浦の戦いで破り、ついに源氏の世を手に入れたのが、源頼朝です。
壇ノ浦の戦いでは弟の義経が大活躍し、大勝利となりました。
頼朝がめざしていたのは、武士の武士による武士のための政治。
武士たちが活躍する世の仕組みを作っていくことでした。

平氏に敗れた源氏

平安時代の終わり、13歳の頼朝は、武士のグループ、源氏のあとつぎとして、父とともにある戦に打って出ます。
平氏のリーダー平清盛との戦いです。
しかし、天皇を味方にして勢いづいた清盛に、無残に敗れ去ります。
父は死に、頼朝は京都から遠くはなれた伊豆へと追放されました。
源氏を再び盛り立てる日を、じっと待ち続けます。
その間、政権をにぎった平清盛は上級貴族となり、一族で思うままに政治をあやつっていました。
つまはじきにされた武士たちのあいだで不満は高まっていきました

味方を集めるために

伊豆へ流されて20年。
「今こそ平氏をたおし、武士の世を作る時だ」。
頼朝は立ち上がります。
しかし、時は平氏の全盛期。
なかなか味方は集まりません。
そこで頼朝が目を付けたのは、武士たちの持つ「土地」でした。
当時、平氏は全国に勢力をのばし、その支配は関東にもおよんでいました。
多くの武士が、先祖代々の土地をおびやかされていたのです。
武士にとって領地は何よりも大切なはず。
頼朝は関東の武士たちに、「味方してくれたら領地を支配する権利をあたえる」とよびかけます

ついに平氏をたおした

こうして、武士たちが続々と集まり始めました。
東北からは弟の義経もかけつけます。
頼朝は鎌倉に拠点を構え、義経たちを西へとせめのぼらせました。
源氏は順調に勝ち進み、平氏を追いつめていきます。
そしてむかえた決戦の場は、山口県壇ノ浦
白い旗が源氏、赤い旗が平氏です。
潮の流れが変わったのを機に、形勢は源氏に有利になり、大勝利を収めました。
ついに頼朝は、打倒平氏の悲願を果たしたのです。

土地を仲立ちにした「ご恩と奉公」

頼朝に仕える武士は、「御家人(ごけにん)」とよばれていました。
頼朝は、戦で活躍した御家人に領地の支配を認めました。
これを「ご恩」といいます。
ご恩に対し、御家人は、何かあれば“いざ鎌倉”とかけつけ、戦うことをちかいます。
これを「奉公」といいます。「土地」を仲立ちにした、頼朝と御家人の強いつながり。
それが「ご恩と奉公」でした。

武士を中心とした政治の仕組み

1192年、頼朝は朝廷から、武士をまとめていく最高の地位、「征夷大将軍」に任ぜられました。
それ以前から頼朝は、鎌倉を拠点として政治を行っていました。
頼朝は、軍事や警察の役割を果たす「守護」土地の管理や年貢の取り立てなどを行う「地頭じとう)」を全国に配置。
これまで主に貴族たちが支配していた土地を武士が管理できるようにしました。
武士を中心とした数々の仕組み。
頼朝が始めたこの政府を、「鎌倉幕府」といいます。

今に伝わる御家人の姿

鎌倉の鶴岡八幡宮
ここで、毎年行われている伝統行事があります。
「流鏑馬」です。
“いざ鎌倉”。
いつでも頼朝のために戦えるようにと武芸にはげんだ御家人の姿を、今に伝えています。
頼朝が築いた、幕府と御家人との強いきずなが、鎌倉時代を支えたのです。

第13回 北条政子~ご恩と奉公を受け継ぐ~

第13回 北条政子~ご恩と奉公を受け継ぐ~

鎌倉幕府の土台を守った北条政子

北条政子は、鎌倉幕府を築いた源頼朝の妻です。
頼朝亡きあと、政子たち北条一族で幕府を守りました。
――時は平氏の全盛期。
平清盛から京都を追われ、伊豆へと流された頼朝。
そんな頼朝と恋に落ちたのが、政子。
武士の世をつくろうとする頼朝を全力で支え、愛したのです。
政子の目標は、頼朝がつくった鎌倉幕府の土台を守り、支えることでした。


頼朝と出会って

平安時代末期、武士の二大勢力、平氏と源氏がぶつかり、平氏が勝利します。
敗れた源氏の頼朝は都を追われ、遠くはなれた伊豆へと流されました。
頼朝は再起を胸に秘め、伊豆で17年の歳月を過ごしていました。
そんな頼朝のもとへと走る一人の女性。
伊豆の武士、北条時政の長女、政子です。
頼朝と愛し合うようになり、父親の反対をおしきって結婚します。
その3年後、頼朝は再び戦いをいどみます。
そして弟の義経たちとともに平氏をたおし、政権をつかみ取りました。
鎌倉に幕府をつくり、武士による世を切り開いたのです。


頼朝の死後訪れた危機

しかし1199年、頼朝は53歳で亡くなります
悲しみにくれ、髪を切り、尼となって冥福をいのる政子をさらなる悲劇がおそいます。
息子たちが次々と殺され、源氏の将軍が三代でとだえてしまったのです。
すると、京都の朝廷が幕府をたおそうと動き出します。
朝廷は幕府に従っていた御家人(ごけにん)たちに協力を求めました。
朝廷に味方するか、幕府を守るか。
御家人たちは動揺します。
鎌倉幕府の大きな危機でした。


「ご恩」と「奉公」

そのとき立ち上がったのが、“尼将軍”とよばれていた政子でした。
政子は、頼朝が築いた「ご恩と奉公」の大切さを説きます。
それは、頼朝政権を支えた仕組みでした。
頼朝は戦で活躍した御家人にほうびとして土地をあたえました。
これが「ご恩」です。
これに対し御家人は、戦のとき“いざ鎌倉”とかけつけ戦いました。
これが「奉公」です。
頼朝さまのおかげであなたたち武士の地位は上がり、土地も増えました。
そのご恩は山よりも高く海よりも深い
今こそそのご恩に応えるときです』。
御家人たちは深く感動し、再び団結したのです。


「ご恩と奉公」で御家人を団結させた

1221年、19万の幕府軍は京都にせめのぼり、朝廷を破りました。
承久(じょうきゅう)の乱です。
政子の毅然としたよびかけによって、鎌倉幕府の土台は守られたのです。


武士の法律「御成敗式目」

源氏の将軍がとだえたあとは、政子の北条一族が「執権(しっけん)」として政治を行いました。
そして政子の死後、三代目の執権・泰時(やすとき)が「御成敗式目」を定めます。
「成敗」は、“裁判”、「式目」は“決まり”という意味。
つまり、武士の裁判の基準となる法律です。
『20年土地を支配していた場合、その土地の権利を認める』、『子どものいない女性は、養子に土地を相続させてもよい』など、領地をめぐる問題が起きたときにそれを解決するための決まりが定められていました。


御成敗式目などで武士の世の土台が固まった

武士の社会のための法律が独自につくられたことで、鎌倉幕府の支配力はいっそう強くなりました。
この法律は、その後も長く武士の政治のよりどころとなりました。
頼朝が開き、政子たちが固めた武士の世は、およそ700年続くことになります。

第14回 北条時宗~元との戦い~

第14回 北条時宗~元との戦い~

外国の皇帝から届いた手紙

18歳で「執権(しっけん)」として鎌倉幕府を率いていた北条時宗
しかし、海の向こうの国の皇帝からの手紙がとどきました。
「今後はたがいにつかいを送って親交を結ぼうではないか」。
ここまではよいとして、問題はここからです。
「もし私の気持ちを理解しなければ、武力を使うことになるかもしれない」。
この手紙、言うことを聞かないと武力を使う、とおどしているのです。
この手紙に対して時宗はどうしたのか。
使者を送って親交を結んだのか、それとも…。


手紙の主はフビライ・ハン

今から750年ほど前、鎌倉幕府を率いていたのが北条時宗です。
1268年、外国から手紙が届けられます。
「従わないと武力を使う」とおどしていました。
手紙の主は、フビライ・ハン
フビライはそのころ、中国を征服して、巨大な帝国「元(げん)」を打ち立てます。
その後、何度も手紙が届きますが、時宗はフビライと戦うことを決めました。


元が九州にせめてきた

1274年、九州の博多の沖にとうとう元の大艦隊が姿を現します。
むかえうつのは日本の武士。
当時の武士の戦い方は、まず名乗りを上げ、1対1で行うものでした。
「やあやあ、我こそは肥後の国の住人…」。
「やあやあ我こそは…」。
それに比べて元の兵士は、名乗るどころか大勢でいっせいにおそいかかってきました。
戦い方のちがいに武士たちは苦戦します。


元の集団戦法と爆弾が武士を苦しめた

元との戦いをえがいた絵巻『蒙古襲来絵詞(えことば)』。
そこには、当時の武士が見たこともない武器がえがかれています。
爆発する武器です。
その中には、火薬と鉄のかけらが入っていました。
経験したことのない武器に武士たちは手も足も出ません。
元の集団戦法と爆弾が、日本の武士を苦しめました。


次の戦いへの備えを

そんな苦しい戦いの夜のこと。
嵐が来て海上は大あれとなります。
翌朝、元の船は、嵐をさけて帰ってしまったのか、見当たりませんでした。
しかし時宗は、元の軍が再びおそってくると考え、次の戦いに備えます。
敵の上陸を防ぐため、石のかべ、「石塁(せきるい)」を築きました。
高さは2m以上、全長は、海岸に沿って20kmにもなりました。


武士の活躍と嵐が元の軍隊を退けた

1281年、一回目の攻撃から7年後、元が再びせめてきました。
前回を上回る大軍です。
武士たちは、海にこぎ出し勇敢に戦いました。
せめこまれても石塁が威力を発揮し、元の兵士の行く手をはばみます。
しかし元の兵士も、あの爆弾を使い、はげしくせめ立てます。
そんなとき、また嵐が来たのです。
船ははげしい風と波にのまれ、ほとんどがしずんでしまいました。
武士の活躍と嵐が、元の軍隊を退けたのです。


ほうびにあたえる土地が不足

戦いのあと、時宗は頭をなやませます。
戦に勝っても元から土地をうばえなかったため、武士にあたえる領地が不足していたのです。
鎌倉幕府と武士は、幕府のために命がけで戦う「奉公」と、ほうびに土地をもらえる「ご恩」という強いきずなで結ばれていました。
しかし、命がけで元と戦ったものの、ご恩の土地は武士たちになかなかあたえられません。


土地がもらえず武士の不満が高まった

しびれを切らしてうったえたのが、竹崎季長(たけざき・すえなが)。
いちばんに元に戦いをいどんだつわものです。
先頭に立って戦ったのだから領地がほしいとうったえたところ、その功績がみとめられ、土地があたえられました。
ほかの武士も季長のように幕府にうったえます。
しかし、ほとんどの者は土地をもらえなかったのです。
土地をあたえられなかった武士と幕府とのあいだには、深いみぞが生まれました。
元との戦いでほうびの土地がもらえず、武士の不満が高まっていきました。


750年前の戦の証

1284年、時宗は34歳の若さでなくなります。
その後、鎌倉幕府の力はおとろえていきました。
2011年、長崎県鷹島(たかしま)沖の水中から、元の船が発見されました。
およそ750年前、時宗と武士たちが戦った証が、今も海の底にしずんでいます。

第10回 平清盛~武士の世の中へ~

第10回 平清盛~武士の世の中へ~

*平治の乱で大勝利…

平治の乱で、ライバルの源氏に勝利した平氏。
平清盛は、平治の乱での活躍がみとめられて、上級貴族の仲間入りをします。
なのに、負けて伊豆に流された源頼朝のほうに同情が集まるなど、清盛がやっつけた源氏のほうが、人気があるようです。

*武士が力をつけていった時代

平清盛は、武士の世を切り開いた、時代の革命児です。
土地を切り開き、農業などをして暮らす人々のなかには、領地を守るために武芸にはげむ者がいました。
こうした人々を「武士」とよびます。
この時代、政治の中心を担っていたのは天皇や貴族でした。
武士の地位は低く、便利なボディガードとしてやとわれていました。
争いのとき、貴族にとっては武士の力がたよりでした。
やがて、武力を増した武士は、貴族をしのぐ立場になっていきます。

*武士の頂点に

清盛は、横行していた海賊の取りしまりを朝廷から命じられます
そこで大手柄をあげ、瀬戸内海を支配する権利をあたえられると、兵力を西へと拡大させていきました。
そんな清盛の最大のライバルが、源義朝です。
二人はそれぞれ武士の一族、平氏と源氏を率いるリーダーでした。
1159年、貴族の権力争いをきっかけに義朝と清盛が激しく衝突。
天皇を味方につけた清盛が大勝利を収めます。
平治の乱」です。
義朝は殺され、息子頼朝は遠く伊豆へ流されました。
清盛はついに武士の頂点に立ったのです。

*平治の乱に勝ち、武士と貴族の頂点に

清盛は活躍をみとめられ、武士でありながら上級貴族にもなります。
平安時代最高の役職である「太政大臣(だいじょうだいじん)」になり、政治の実権をにぎりました。
頂点に立った清盛は、一族を重要な役職につけました。
平氏一族が太陽のようにかがやく時代が幕を開けます。

*中国との貿易に乗り出す

出家した清盛は、すぐれた実業家としての才能も発揮します。
平氏の基盤を支える収入を得るため、あることに乗り出すのです。
「宋(そう)」とよばれた中国との貿易です。
清盛は、神戸の港を貿易の拠点にしようと考えます。

*平氏の時代の終わり

富を持ち、政治をほしいままにする平氏。
その姿をほかの武士たちは苦々しく思っていました。
「平氏は武士のためではなく、平氏一族のために政治を行っている」…。
1180年、事態は大きく動きます。
かつて、平治の乱で伊豆へ追いやった源頼朝が、打倒平氏をかかげ、立ち上がったのです。
「あのとき、頼朝を殺しておけばよかった…」。
清盛は後悔します。
そして、64歳で熱病にかかりなくなります。
清盛の死から4年後、壇ノ浦の戦いで宿敵源氏に敗れ、平氏の時代は終わりを告げました。

*今に受けつがれる功績

現在の神戸港。
かつて清盛が、貿易のために大きくしたあの港です。
多くの外国船が行き交う、日本有数の海の玄関に成長しました。
武士として、貴族として、すぐれた実業家として、清盛の功績は今に受けつがれています。