第20回 豊臣秀吉~武士が支配する世へ~
■ 信長のあとを引きついで
今からおよそ430年前、豊臣秀吉は、亡き主君、織田信長のあとをつぎ、天下統一を進めました。
1582年、信長が家臣の明智光秀にそむかれ、京都の本能寺で亡くなります。
知らせを聞いた秀吉は、中国地方での戦いを直ちにやめ、京都にもどります。
そして、明智光秀を打ち破りました。
この手柄により、秀吉は大勢の家臣たちをおさえ、信長のあとを引きつぎます。
■ 関白の地位を利用して大名を従わせた
秀吉は、天下統一のための城として、大阪城を築きます。
そして四国地方をせめ、支配地域を広げます。
勢いのとまらない秀吉は、天皇の政治をたすける「関白」という高い地位までも手に入れます。
その高い地位を利用して、各地の大名たちに自分に従うよう命令を出し、抵抗するものには武力を使いました。
そのようにして大名たちをおさえ、西日本全域を支配したのです。
秀吉は、関白という地位を利用して、各地の大名を従わせました。
■ 天下統一のためには
天下統一には、大名をおさえるだけでなく、農民たちを支配することも必要だと考えます。
そこで行ったのが「太閤検地(たいこうけんち)」です。
全国の田畑の面積をくわしく測り、どれだけ作物がとれるのかを調べたのです。
「検地帳」には田畑の面積が記入され、耕作する農民の名前が書かれていました。
どの農民が、どれだけの土地を持っているかが明らかにされ、農民たちは決められた年貢を納める責任を負い、勝手に土地をはなれられなくなりました。
■ 農民を支配するしくみを作った
さらに秀吉は、農村に「刀狩(かたながり)令」を出します。それは、農民が刀ややりなどの武器を持つことを禁止するものでした。武器を没収し、一揆を防ぐためです。
そして取り上げた武器は、新しい大仏を作るための釘などにするとされていました。
仏のめぐみを受けられる、と農民自ら武器を差し出すようにしたのです。
検地や刀狩を行い、武士が農民を支配するしくみを作りました。
このように秀吉は、強大な権力で大名を従わせ、検地と刀狩で農民を支配することで、天下統一を進めたのです。
■ 天下統一、そして…
1590年、秀吉は関東で力を持ち抵抗していた北条氏を打ち破り、とうとう天下統一を成しとげます。
国内の支配を確かなものにした秀吉は、さらに大きな野望を持ちます。
当時の中国、明(みん)の征服です。
そのため朝鮮半島に二度にわたり大軍を送ります。
しかし朝鮮の人々は明の援軍とともに激しく抵抗しました。
1598年、秀吉が病で亡くなります。
戦いに苦しんでいた大名たちは日本に兵を引き上げました。
その死後、豊臣家の力はおとろえていき、最後には徳川家康によってほろぼされてしまいました。
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