第12回 源頼朝~ご恩と奉公~
武士の時代を作る
政治をほしいままにしていた平氏を壇ノ浦の戦いで破り、ついに源氏の世を手に入れたのが、源頼朝です。
壇ノ浦の戦いでは弟の義経が大活躍し、大勝利となりました。
頼朝がめざしていたのは、武士の武士による武士のための政治。
武士たちが活躍する世の仕組みを作っていくことでした。
平氏に敗れた源氏
平安時代の終わり、13歳の頼朝は、武士のグループ、源氏のあとつぎとして、父とともにある戦に打って出ます。
平氏のリーダー平清盛との戦いです。
しかし、天皇を味方にして勢いづいた清盛に、無残に敗れ去ります。
父は死に、頼朝は京都から遠くはなれた伊豆へと追放されました。
源氏を再び盛り立てる日を、じっと待ち続けます。
その間、政権をにぎった平清盛は上級貴族となり、一族で思うままに政治をあやつっていました。
つまはじきにされた武士たちのあいだで不満は高まっていきました。
味方を集めるために
伊豆へ流されて20年。
「今こそ平氏をたおし、武士の世を作る時だ」。
頼朝は立ち上がります。
しかし、時は平氏の全盛期。
なかなか味方は集まりません。
そこで頼朝が目を付けたのは、武士たちの持つ「土地」でした。
当時、平氏は全国に勢力をのばし、その支配は関東にもおよんでいました。
多くの武士が、先祖代々の土地をおびやかされていたのです。
武士にとって領地は何よりも大切なはず。
頼朝は関東の武士たちに、「味方してくれたら領地を支配する権利をあたえる」とよびかけます。
ついに平氏をたおした
こうして、武士たちが続々と集まり始めました。
東北からは弟の義経もかけつけます。
頼朝は鎌倉に拠点を構え、義経たちを西へとせめのぼらせました。
源氏は順調に勝ち進み、平氏を追いつめていきます。
そしてむかえた決戦の場は、山口県壇ノ浦。
白い旗が源氏、赤い旗が平氏です。
潮の流れが変わったのを機に、形勢は源氏に有利になり、大勝利を収めました。
ついに頼朝は、打倒平氏の悲願を果たしたのです。
土地を仲立ちにした「ご恩と奉公」
頼朝に仕える武士は、「御家人(ごけにん)」とよばれていました。
頼朝は、戦で活躍した御家人に領地の支配を認めました。
これを「ご恩」といいます。
ご恩に対し、御家人は、何かあれば“いざ鎌倉”とかけつけ、戦うことをちかいます。
これを「奉公」といいます。「土地」を仲立ちにした、頼朝と御家人の強いつながり。
それが「ご恩と奉公」でした。
武士を中心とした政治の仕組み
1192年、頼朝は朝廷から、武士をまとめていく最高の地位、「征夷大将軍」に任ぜられました。
それ以前から頼朝は、鎌倉を拠点として政治を行っていました。
頼朝は、軍事や警察の役割を果たす「守護」、土地の管理や年貢の取り立てなどを行う「地頭(じとう)」を全国に配置。
これまで主に貴族たちが支配していた土地を武士が管理できるようにしました。
武士を中心とした数々の仕組み。
頼朝が始めたこの政府を、「鎌倉幕府」といいます。
今に伝わる御家人の姿
鎌倉の鶴岡八幡宮。
ここで、毎年行われている伝統行事があります。
「流鏑馬」です。
“いざ鎌倉”。
いつでも頼朝のために戦えるようにと武芸にはげんだ御家人の姿を、今に伝えています。
頼朝が築いた、幕府と御家人との強いきずなが、鎌倉時代を支えたのです。
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